2019年3月10日日曜日

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十四 百姓たちが意地を通す

こんなふうに「フェチュコーウィチ」は弁護を結びました。

今度湧き起った、嵐のような傍聴席の感激はとどまるところを知りませんでした。

これを罰することなど、もはや考えられぬことでした。

女性たちは泣いていましたし、男たちの多くも泣いていました。

二人の高官まで涙を流していました。

裁判長はあきらめ、鈴を鳴らすのさえためらっていました。

「これほどの熱狂にケチをつけるなんて、神聖なものにケチをつけるのと同じだわ」

のちに、この町の婦人たちはこう叫んだものであります。

当の弁士も心底から感動していました。

ところが、まさにそのような瞬間に、わが「イッポリート・キリーロウィチ」が再度《反論を交換すべく》立ちあがったのでした。

反論は自由にできるのでしょうか、そんなわけはないですね、ちゃんとルールがあるはずです。

彼は憎悪の目でにらみつけられました。

「なんですって? どういうことですの? よくもこのうえ反論などできるものね?」

婦人たちが不平を洩らしました。

しかし、たとえ「イッポリート」の妻である検事夫人を筆頭に、全世界の女性が不平を鳴らしたとしても、この瞬間の彼を押しとどめることはできなかったでありましょう。

「イッポリート」の奥さんは「フェチュコーウィチ」派のようですね。

彼は青ざめ、興奮にふるえていました。

最初に口を出した言葉や文句は意味さえわかりませんでした。

彼は息をあえがせ、発音も不明瞭で、支離滅裂でした。

もっとも立ち直りは早いものでした。

しかし、この二度目の弁論からはいくつかの文章を引用するだけにします。

「わたしは小説を創作したと非難されました。それなら、弁護人のは、小説にもとづいて小説を創ったのでなくて何でありましょうか? あとは詩が欠けているだけです。フョードル・カラマーゾフは恋人を待ちながら封筒を破り、それを床に放りすてた、というのです。おまけに、このおどろくべき場合に彼が口にした言葉まで、引用される始末であります。いったいこれが叙事詩ではないのでしょうか? それに、彼が金をぬきだしたという証拠はどこにあるのでしょう、彼が言ったことをだれがきいていたのですか? 知能薄弱なスメルジャコフは、なにやらバイロン的な主人公に仕立てあげられ、私生児というおのれの生れに対して社会に復讐するのです-はたしてこれがバイロン趣味の叙事詩ではないのでしょうか? また、父の家に押しこんだ息子は、父親を殺しはしたが、同時にまた殺したわけではないという-こうなるともう小説でも詩でもなく、もちろん自分も解くことのできぬ謎をふっかけるスフィンクスであります。殺したのなら、殺したわけです。殺しはしたが、殺したわけではないとは、いったい何のことですか、そんなことをだれが理解できましょう? さらにわれわれは、この演壇は真理と健全な認識の演壇であるというご託宣をきかされたのでありますが、まさにその《健全な認識》の演壇から、父親を殺すことを親殺しとよぶのは偏見にすぎないという公理が、誓いとともに、ひびき渡ったのです! だが、もし親殺しが偏見であり、子供たち一人ひとりが自分の父親に向って『お父さん、どうして僕はお父さんを愛さなければいけないのです?』と問いただすようになるとしたら、いったいわれわれはどうなるのでしょう、社会の基礎はどうなるのです、家庭はどこへ行ってくまうのですか? 父親殺し-これがなんと、モスクワの商家のおかみさんの《硫黄(ジューベル)》にすぎないと言うのであります。ロシアの裁判の使命と未来とに対するもっとも貴重な、もっとも神聖な遺訓が、ただ目的を達するためだけのため、無罪にしえぬ被告の無罪をかちとるだけのために、歪曲された軽薄な形で示されているのです。ああ、彼を慈悲で圧倒してください、と弁護人は絶叫します。犯罪者に必要なのはそれだけであり、明日になれば彼がどんなに圧倒されたか、みなにわかるだろう、というのです! しかし、被告の無罪を要求しただけとは、弁護人もあまりにも謙虚すぎるではありませんか? なぜ、子孫や若い世代に自分の功績を永久に残すために、親殺しを記念する奨学金制度でも要求しないのでしょうか?・・・・」

ここで切ります。

「イッポリート」も私の感想と同じような疑問を二点ぶつけています、一つ目は彼の弁護も彼の創った別の小説だということ、二つ目は、殺したと言ったり殺していないと言ったりで理解できないという点です。


「バイロン」とは、「[生]1788.1.22. ロンドン[没]1824.4.19. ミソロンギ。イギリスの詩人。ポルトガルからギリシアへの旅を扱った長詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』の1~2巻 (1812) によって一挙に名声を獲得,社交界の寵児となったが,異母姉オーガスタとの醜聞のためにイギリスを追われ,1816年イタリアへ渡った。 23年ギリシアの独立戦争に参加,翌年戦病死した。作品には,風刺詩『ドン・ジュアン』(19~24) ,劇詩『マンフレッド』 (17) ,『カイン』(21) ,最後の作品『ウェルナー』 (22) など。湧出る豊かな抒情,感傷を誘う異国情緒,奔放な情熱の物語,機知縦横の風刺など多方面にたくましい才能を発揮して,ことに大陸のロマン主義文学に大きな影響を与えた。」とのこと。


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