2016年8月14日日曜日

136

聖像画というのは、イコンのことだと思いますが、ネットで正教徒のイコンについて以下のように説明されていました。

「正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある。聖大ワシリイ(大バシレイオス)(330年頃 - 379年)は、「聖像への尊敬はその原像に帰す」とした。ダマスコのイオアン(676年頃 - 749年)はこれを引用した上で、原像は聖像化されるものであるとともに結果を得る(尊敬を得る)元になるものでもあるとして、こうした聖像への敬拝を、東に向かって祈ることや十字架への尊敬とともに、書かれざる聖伝(アグラフォシス・パラドシス)に数えた。すなわち正教会において、イコンは信仰の対象ではなく、崇拝の対象でもないが(崇拝・礼拝は神にのみ帰される)、信仰の媒介として尊ばれる。こうした教義は第七全地公会議において確認されたが、この公会議では全き人としてこの世に存在した全き神であるハリストス(キリスト)を画き出すことは、神言の藉身(受肉)に対する信仰を守ることであることも確認された。正教徒がイコンの前で祈る時、描かれたハリストス(キリスト)、生神女、聖人に祈る。人はイコンを通じて霊の世界やそこに住む者に触れることが出来るようになる。パーヴェル・フロレンスキイは「イコンとは別の世界への窓口」であるとした。イコンは神の国の存在を信徒に証するとともに、教会にある信徒が神の国にいることを証してもいる。正教の信仰において、イコンは「使用を認められた」というよりも、むしろ属神的(ぞくしんてき、霊的)必需品であるとされる。ギリシア語の「イコン」(ギリシア語: εικώνの中世 - 現代ギリシア語読み、古典ギリシア語再建音ではエイコーン)は、似姿、印象、かたどり、イメージという意味がある。思いや考えを託す器としてのイメージ(イコン)は、託されたものを表現する働きも持つため、器(イメージ、すなわちイコン)の破壊は器に盛られているものの破壊に通じると考えられる。ここでいう「器」は、具体的には伝統的なイコンの技法、既定された色や構図であると整理される。」

庵室の隅のたくさんの聖像画の中に巨大なサイズの聖母像がありまして、これはおそらく教会分裂(訳注:十七世紀半ば、ニコンの宗教改革をめぐって正教が分裂した)のずっと前に書かれたものに違いなかったと書かれています。

この絵の前には燈明がともっていました。

ここでまた、「ニコンの宗教改革」を調べてみました。

ロシア正教全体のことを理解していなければ、わかりずらいのですが、とりあえず、「ニコンの宗教改革」の部分だけを抜書きします。

「ロシア正教会史の中でも特筆される大事件として挙げられることが多い総主教ニーコン(ロシア語版、英語版)による改革は、特筆されて然るべきさまざまな決定的影響をロシア正教会に残した。この改革に対する評価は賛否両論があり、現代の正教会関係者からも必ずその功罪の両面が挙げられる。その背景と顛末を、概要のみ記す。なお、この改革は宗教改革とは呼ばれない。17世紀前半まで、キエフを含むウクライナ西岸はポーランド・リトアニア共和国の勢力下にあった。すなわちカトリック教会の影響下にあったことになる。同じ時期、カトリック教会にはプロテスタントに対抗する対抗宗教改革が起きており、世俗権力からもローマカトリック教会からも、ウクライナにおける教会をローマ教皇の下に帰属させようとする活発な動きが生じた。1596年にはブレスト合同によりウクライナ東方カトリック教会が成立。現在も存続する、東方典礼を保持しつつローマ教皇の教皇首位権を認める教会である東方典礼カトリック教会のうち最大級の教会がウクライナに誕生した。これによって、ウクライナに関わるコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下にあった正教会指導者に生じた潮流は、大きく分けて二つある。一つはキリロス・ルカリス(キリル・ルカリス)(1572年-1638年)にみられる、反ローマカトリック感情からプロテスタントの影響を受け入れる傾向。いま一つはキエフ府主教ペトロー・モヒラにみられる、ローマカトリックに対抗するためにラテン神学を用いようとする傾向である。しかし両派ともに西欧の神学的な影響を全否定するものではなかった。寧ろ「全否定できなかった」という方が正しい。その要因はさまざまなものがあるが、一つの理由として当時、独自の正教会の学問機関がほぼ皆無であったことが挙げられる。オスマン帝国では正教会の教育機関維持は許されず、高位聖職者となる人々はイタリアに行ってラテン語で神学教育を受けるしか高度な教育を受ける方法がなかった。この時代、聖師父に則った正教会の正統的信仰をまだしも汲むものとして評価されているのは1672年のエルサレム総主教ドシセオス2世による信仰告白書であるが、ドシセオスは独学で聖師父学を学んでいた人物であった。より正教会の伝統的な信仰を明らかにする著作としては、後代アトス山のフィロカリアを待たねばならないとされる。キエフ府主教ペトロー・モヒラはカトリック国のポーランド・リトアニア共和国の支配下にあって圧倒的ハンディを抱えつつも、1632年、キエフ神学校を設立する。正教会の神品達にラテン的素養を具えさせ、以てカトリックに対抗しようという狙いがあったこの学校の声望はすぐに高まった。しかしながら当然このようなラテン系の術語等を正教に導入する試みは、いかに正教を護るためという善意から出たものであっても、正教会内の伝統を重んじる者達から反発を買うのは自然な流れであった。ウクライナが1654年に大幅な自治権の保証つきでロシアのツァーリの宗主権を認めポーランド・リトアニア共和国の支配から脱出したことで、ロシアと西ウクライナの物流と人の交流は活発化していく。それはモスクワを中心とするロシア正教会に西欧化の波が押し寄せて来ることをも意味した。こうした時に登場してきたのがニーコン(ロシア語版、英語版)であり、彼はアヴァクームらと共に正教会の西欧化に危機感を抱き、正教会の伝統を守る意識を持っていた人物であった。だが1652年にニーコンがツァーリであるアレクセイの支持を受けて総主教に着座し教会の改革を始めた段階で、アヴァクームらの一派と分裂が生じた。先述の通りこの時代、ロシア正教会では所有派が指導的立場にあったが、所有派は非常に形式を重んじる人々であり、形式主義は非常に深くロシア正教会に根を下ろして居た。形式主義への偏重を中庸の状態に適正化させる事。およびロシア正教会の形式を、正教世界の中心たるロシアに相応しくギリシャに倣ったものとし、ギリシャの奉神礼・伝統・祈祷書を取り入れることで正教会世界の標準的地位をロシアに確立する事。以てカトリック教会への対抗とする。これらがニーコン改革によって目指された。なお誤解されることもあるので注意を要するが、ニーコン改革はロシア正教会を革新しようとしたのではなく、あくまでも(少なくとも改革者の主観的には)他教会と共通する正教会の伝統を確立しようとしたのみであって、伝統をいかに保持すべきかという問題意識についてはニーコンに賛成した側も、ニーコンに反対する側も、異なるところはなかった。西欧におけるカトリックとプロテスタントの間の相違ほどには両者には見解上の溝はなかったと言える。だがそれでもニーコンによる改革は、ルーシから先祖代々、祈祷形式を護ってきた自負を持つ人々からの猛烈な反発を生み、反対者から致命者も出た。ツァーリの縁戚からも致命者が出たことにこの反対運動が広く起こっていたことが示されている。これらの改革に反発した人々は改革を受け入れた人々から「分離派(ラスコーリニキ)」と蔑称された。正教古儀式派が中立的な呼称である。後代、帝国の安定を期す帝権の思惑から「『分離派』という名称は差別的である」として、彼等に対して若干の配慮が示されるようになり、エカチェリーナ2世の時代から公文書においては「古儀式派」の名称を使用するようになった。現代においても「古儀式派」が、当事者に配慮した名称となっている。当初は古儀式派に対する弾圧は人頭税を二倍払わせるなどの間接的手段に止まったが、次第に実力行使の面が増大。ニーコン総主教はツァーリの摂政という立場を活かし、古儀式派への実力行使を伴った弾圧を進めていった。古儀式派による集団焼身自殺といった熱狂的な抵抗運動はロシア全国各地でみられた。反対運動の背景には、当時、正教会世界にあって長時間立ったままで祈祷を行っていたのはロシア正教会のみであり、ロシアにやってきた外来の正教徒(特にオスマン帝国領内やポーランドといった異教徒の支配下にある正教徒)が長時間の起立姿勢に堪えられない姿などを目の当りにしていたロシア正教徒からすれば、「自らこそが正統の祈りを護っている」という意識が生まれても仕方なかったという事情もあった。アヴァクームらの一派はその後、数々の分派を生みつつ「古儀式派」として存続していくことに成る。弾圧の程度に時期による濃淡はあったものの、ロシア帝国政府は基本的にこれを長い間認めなかったので、彼等はシベリアなどの辺境に逃れていくこととなった。改革がこうした大規模な波乱を呼び起こした結果、ニーコン総主教の改革の方針は認められたものの、全国的に生じた混乱をツァーリ:アレクセイから指弾されたニーコン総主教は1666年に追放された。元々教権が俗権に優越することを主張して譲らなかったニーコン総主教とアクレセイ皇帝は、その基本的な立場からしてすでに差異が大きくなってきており、改革の是非云々は追放の口実に過ぎなかったという側面も指摘される。正教会世界同士の交流が深まる中、明らかになってきた奉神礼や祈祷書の差異の是正は確かに必要不可欠であったのであり、ニーコン総主教による改革は不可避であったともいわれる。この時代に、ロシア正教会が現代に至るまで保持する奉神礼の骨格が出来上がっており、ロシア以外の正教会との差異は縮まった。だがニーコン総主教は性急に過ぎ、また暴力的に過ぎた。不可避とはいえ改革を強引に進めた結果生み出されたもの、それは大規模な分派である古儀式派であり、加えてツァーリによる総主教追放を招来したことによる、ロマノフ朝によるロシア正教会に対する統制の完成であった。ただし、古儀式派の主導者であった長司祭アヴァクームは、ニーコン総主教が追放された後、1682年に火刑に処されており、この「改革」がニーコン一人の手によってなされたわけではない事には注意が必要である。」

長い引用になりましたが、あまり頭に入ってきません。

なぜ、この巨大な聖母像が教会分裂以前のものに違いないと自信を持って書かれているのでしょうか。


絵の内容がロシア正教の伝統的なものと違うからか、単に絵が古そうだからか、わかりません。


2016年8月13日土曜日

135

さて、庵室での面会の場面です。

長老はたいへん古いマホガニー製の皮張りのソファに腰をおろしました。

客の四人は、反対側の壁ぎわにある四つのかなり擦りきれた黒い皮張りのマホガニー製の椅子にならんで座りました。

司祭修道士の一人は戸口近くに、もう一人は窓ぎわに分かれて座りました。

そして、神学生と「アリョーシャ」と見習い僧は立ったままです。

庵室は狭く、みすぼらしい感じでした。

家具や調度品は無趣味で、貧弱で、必要なものしかありません。


出窓には花瓶が二つ置かれ、部屋の隅にはたくさんの聖像画が飾られていました。


2016年8月12日金曜日

134

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は、昨夜から修道院では修道院の慣習に従おうと決心していましたが、「しかし今、司祭修道士たちのこうした最敬礼や接吻を見るなり、彼は一瞬のうちに決心を変え」ました。

そして、「重々しいまじめな様子で市井風のかなり深いおじぎをすると、椅子の方に引き」さがりました。

つまり彼は思っていることと反対の行動をとってしまったわけですね、こういうことはよくあるといえばよくあることなのですが、ここでは、初志を貫徹してほしかったですね。

少し前、彼がこの僧庵に入ってくるとき、「いくらか苛立った気持ち」になっており、『俺には今からわかってるんだ。いらいらして、きっと議論をはじめるにきまってる・・・そのうち、かっとなって、自分自身も思想も卑しめることになるんだ』との独白がありましたが、これが伏線になっており、何かがはじまりそうな予感がします。

そして、「フョードル」はどうしたでしょう。

彼は、「からかい面で猿のように」、そっくり「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の真似をしました。

本来なら「フョードル」こそ、司祭修道士たちの真似をしそうなのですが、ここでは、あえて「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の真似をして、彼を煽っているようです。

もう、この辺で、彼らの内心は穏やかなものではなく、波立ってきているのではないでしょうか。

さて、「イワン」はどうしたでしょう。

彼は「ひどくもったいぶって丁寧におじぎをしたが、やはり両手をズボンの縫目につけたまま」でした。

「ピョートル・フォミーチ・カルガーノフ」は、「すっかり上がってしまい、全然おじぎも」しませんでした。

彼は、前に紹介されたときに「じっと永いこと見つめていながら、相手の姿なぞまるきり目に入っていないことがときおりある」と書かれていましたが、今回もそのとおりのようです。

「ゾシマ長老」は「祝福を与えるために上げかけていた手をおろすと、もう一度おじぎをして、みなに椅子を」すすめました。

「アリョーシャ」は恥ずかしくなって赤くなりました。


彼の「不吉な予感が的中しつつ」ありました。


2016年8月11日木曜日

133

ここでやっと「ゾシマ長老」の登場になります。

彼は、見習い僧一人と「アリョーシャ」を従えて出てきました。

先ほどから部屋で待っていた司祭修道士は立ち上がり、指が地に触れるほど深いおじぎをしました。

そして、「ゾシマ長老」の祝福を受けて、長老の手に接吻しました。

「ゾシマ長老」は、「パイーシイ神父」にも祝福を与えました。

そして、二人に対して、それぞれ指を地に触れさせて深いおじぎを返し、自分のための祝福も一人ひとりに求めました。

この場面は、ロシア正教の内実を知らない者にとってはなかなか想像しがたいです。

こういった一連の行動は、毎日行われる礼式のような堅苦しさはまったくなく、まじめに感情を込めて行われていました。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はいっしょに入った仲間たちの先頭にいましたが、彼にとってはこの儀礼的な行動はすべて意識的な演出で行われているような気がしました。


彼は、昨夜のうちから考えていたのですが、いかなる主義信条があろうともそれにかかわらず、ここではそれが慣習なのだから、単なる儀礼的な面から言っても、歩みよって、手に接吻はしなくとも、長老の祝福は受けるべきでした。


2016年8月10日水曜日

132

二 年とった道化

一行が庵室に入ったのは、来客の知らせをきいてすぐに寝室から現れた長老と、ほとんど同時でした。

庵室ではすでに僧庵の司祭修道士が二人、長老を待っていました。

一人は図書係の神父で、もう一人は「パイーシイ神父」でした。

「パイーシイ神父」はそれほど高齢ではありませんでしたが、たいそうな学者と評判されており、病身でありました。

後で司祭修道士が立ち上げる場面がありますので、この二人は椅子に腰かけていたと思います。

さらにこのほか、普通のフロックコートを着た、見たところ二十二、三歳の青年が片隅に立って長老を待っていました。

彼はその後も終始立ちどうしでした。

彼は、神学校を卒業した未来の神学者で、どういうわけか、この修道院と僧団の庇護を受けていました。

かなりの長身で、頬骨の広い生きいきした顔をしており、細い褐色の目は注意深く聡明そうでした。

そして、顔には申し分ないうやうやしさが表されていましたが、それも露骨なおもねりの色などなく、礼儀正しいものでした。

誰もいない僧庵で計3名の関係者が待ち受けていたのですね。

そして、その名前すら出てこない青年についての描写が続きます。

彼は、「入ってきた客たちに対しても、自分が対等の立場ではなく、むしろ、まだ庇護下にある、一本立ちしていない人間であるとして、おじぎで挨拶することさえしなかった。」そうです。


このような心理描写がこの小説を支えているように思います。


2016年8月9日火曜日

131

嫌味を言われた「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」がそれに答える暇もなく一同は僧庵の中に案内されました。

そして、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は「いくらか苛立った気持で入っていった・・・」のです。

彼の頭の中には『俺には今からわかってるんだ。いらいらして、きっと議論をはじめるにきまってる・・・そのうち、かっとなって、自分自身も思想も卑しめることになるんだ』と、こんな思いがひらめいたのでした。

この章ではずいぶん「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の人間性がわかるようなことが書かれているのが印象的です。

ここでの彼の頭の中に浮かんだ悲観的な思いは、革命期にパリに行き来していた自分がたぶんおこなってきたであろう多くの人々との議論の中での彼の経験に基づくのではないでしょうか、『俺には今からわかってるんだ。・・・』と言っていますが、そのようにして、いらだって、自分の思想も卑しめてしまった経験が記憶に残っており、今回も頭によぎったのではないでしょうか。


普通なら、自分が苛立っていることが自分でわかっているなら、それをコントロールすることができるとおもうのですが、彼は無理にそういうことをしないようですね。


2016年8月8日月曜日

130

「フョードル」が過去にこの僧庵のあるところまでやってきたかどうかはわかりませんが、僧庵が美しいバラの花に囲まれているというようなことをどこかで聞き、知っていたかのような書き方です。

そして「フョードル」は表階段をあがりながら、前の「ワルソノーフィイ長老」は「優美なものがきらいで、ご婦人方にさえ、とびかかって杖で殴ったとかいう話ですけど」そのような長老のころにも、このような美しい花はあったのかと、修道僧に質問します。

修道僧は前の「ワルソノーフィイ長老」は時によると神がかり行者のように見えることがあって、それで愚かしい話もたくさんありますが、杖で殴るなんてことは一度もありませんと答え、お取次するので少々お待ちくださいと言いました。

花のことには触れてませんね。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はその隙にタイミングを見計らって、「最後に一つだけ条件があります」が、と「フョードル」に言います。

「態度をよくしてくだいよ、でないと思い知らせてあげますからね」と。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はそのことばかり気にしていますが、あまりしつこく言われると、逆効果ではないでしょうか。

「フョードル」は、せせら笑って、嫌味を言いました。


「どうしてあんたがそんなに心配するのか、さっぱりわかりませんな」、相手=「ゾシマ長老」は目を見ただけでどういう用件できたか、わかるそうだから、あんたは自分の罪を見抜かれることを恐れているのかな、それならパリ仕込みの進歩的な紳士であるあんたは連中の考えを信じていることになる、「おどろきましたな、まったく!」というようなことを言います。

そうです、「ゾシマ長老」は、「訪れてくる見ず知らずの人の顔をひと目見ただけで」、「訪問者が一言も口をきかぬうちに相手の秘密を言いあててびっくりさせ、うろたえさせ、時には怯えに近い気持ちさえひき起こさせたという。」のですから。