2016年8月21日日曜日

143

次は、「フョードル」が相手に気に入られようとして、冗談を言って失敗した話のその二です。

相手は、さる有力者です

「フョードル」は、『お宅の奥さまはくすぐったがり屋でらっしゃいますね』と言いました。

彼のこの発言の意図は、名誉心=道義心がデリケートということだったそうです。

相手もなかなかついていけませんね。

だしぬけに、『じゃ、家内をくすぐったことがあるんですね?』と質問されました。

そうすると、「フョードル」は、「突然、我慢できなくなって、お愛想のつもりで言ったんですよ。『はい、くすぐったことがございます』とたんに、その人にしたたかくすぐられましたっけ・・・」

彼はこの話はずっと以前のことなので、話しても恥ずかしくない、と言います。

そして、「いつだってわたしはこの調子で、損ばかりしているんですよ!」と。


私は、「その人にしたたかくすぐられましたっけ・・・」の部分は、情景が理解しがたく、考え込んでしまいました。


2016年8月20日土曜日

142

結局、話は「フョードル」は気に入られようとして洒落を言ったのが相手に通じなくて失敗したという話なのですが、さらに続きます。

洒落の通じなかった警察署長は、大まじめで突っ立ったまま、まじまじと「フョードル」を見つめていました。

そこで「フョードル」は、自分はみんなを楽しませるために、少し冗談を言っただけで、「ナプラーヴニク」というのは、有名なロシアの指揮者であって、われわれの仕事の和を保つためにも「やはりぜひ指揮者のような存在が必要なものですから・・・」と、なかなか筋の通った説明をしたのですが、と弁解めいたことを言いました。

そうすると、署長は『失礼だが、わたしは警察署長です。わたしの役職を洒落に使ったりするのは許しませんぞ』と言って、くるりと背を向けて、出て行こうとしました。

「フョードル」はそのうしろ姿に叫びました。

『そう、そうですとも、あなたは署長(イスプラーヴニク)さんです、ナプラーヴニクなんぞじゃありませんよ!』

そんなことを言ってももう手遅れで、相手は、『いいや、ああ言われたからには、つまり、わたしはナプラーヴニクなんでしょう』とへそを曲げてしまいました。

これで仕事もぶちこわれてしまいました。

「フョードル」は何をやっても自分はそんなで、いつもお世辞でかえって損をするんだと言います。


以上が、「フョードル」の自虐的な話のその一ということになりますが、いきなりはじまった独演会はその二へと続きます。


2016年8月19日金曜日

141

「フョードル」は、その癇癪もちに、「単刀直入に、それも、世馴れた人間らしいくだけた口調で」次のように言いました。

『署長(イスプラーヴニク)さん、ずばり言って、わたしらのナプラーヴニク(訳注 十九世紀ロシアの作曲家、オペラ指揮者)になっちゃくださいませんか!』

彼は、人を見る目があるだけあって、どういう相手にはどういう態度をとればいいということがわかっていて、その判断に自信もあったのでしょう。

ここでは、気むずかしそうな癇癪もちの警察署長をなごませようとして、くだけた調子で洒落を言っています。

なかなかうまい洒落だと思うのですが、相手は『なんです、そのナプラーヴニクとやらは?』と、この洒落は通じませんでした。

「フョードル」は、すぐに「こいつは失敗したとわかりましたよ。・・・」

さすがに、「フョードル」の反応は早いですね。

自分の失敗をすぐに理解しています。

ところで、「ナプラーヴニク」とはどんな人物か調べました。


「エドゥアルド・フランチェヴィチュ・ナープラヴニーク(またはナプラヴニク、ナプラーヴニクとも) 1839年8月24日 ボヘミア地方ビーシチ - 1916年11月23日)はチェコ人の指揮者・作曲家。サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で永年にわたって首席指揮者を務めたことにより有名。リムスキー=コルサコフやキュイらロシア人作曲家による多くのオペラを初演した。また、チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」は、ナープラヴニークによる改訂稿が一般に使用されている。14歳で孤児となったため、地元の教会でオルガンを演奏して生計を立てるようになる。1854年にプラハのオルガン学校に入学し、教師の温情によって学業を続けることができた。1861年にロシアから招かれ、サンクトペテルブルクでユスポフ大公(悪名高いフェリックス・ユスポフ公とは別人)の私設オーケストラの指揮者の地位を得た。1864年からロシア音楽協会の演奏会に指揮者として登場し、1869年からはミリイ・バラキレフの後任として同音楽協会の常任指揮者(1881年まで)およびマリインスキー劇場の主席指揮者となる。 ロシア・オペラ界における活躍のほかに、チャイコフスキーの弦楽セレナーデの公開初演(1881年)など、器楽曲の指揮にも携わった。自作もオペラや舞台音楽が数多いが、交響曲や管弦楽曲、室内楽曲やピアノ曲もいくつか遺している。1914年に健康を害して、それ以上の活動を続けることができなくなった。」


2016年8月18日木曜日

140

「フョードル」の独演会みたいになっています。

まず、「人間はやはり、気に入られなけりゃいけませんからね、そうでしょうが?」の例証がはじまります。

それは、彼が取引のためにある町に行って、そこの商人たちと仲間を組もうとしていた7年ばかり前のことです。

何かいろいろと頼みごとがあって、一度設ける必要があり、警察署長のところへ行きました。


「ところが、出てきた署長というのが、太ったブロンドの大男の、気むずかしそうな人間でしてね、こういう場合いちばん危険なタイプなんですよ。癇癪もちなんです、癇癪ですな。」


2016年8月17日水曜日

139

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はずっと不機嫌でしたので、『どれをとってみても、意地わるで低級なくせに、高慢な心の持主だな』と長老のことを思いました。

ちょうど、振子のついた安物の小さな柱時計が、あわただしい音で正午を告げ、これが、話を切り出すのに役立ちました。

ここで、「きっかりお約束の時間でございますね」と「フョードル」が叫びました。

そして続けて、息子の「ドミートリイ」が来ていないことを「神聖な長老さま!」に詫び、自分はいつも几帳面で、一分たりとも遅れたりはせず、「正確さこそ帝王の礼儀(訳注 ルイ十八世の座右の銘)をおぼえておりますので」、と言います。

このとき、「神聖な長老さま!」という言葉をきいて、「アリョーシャ」はぎくりとしました。

彼はもう父親がふざけることを予感したのでしょう。

ドイツのことわざで、「定刻は帝王の礼儀です」というのがあるそうですが、「正確さこそ帝王の礼儀」というルイ十八世の座右の銘の出展はどこにあるのかわかりませんでした。

この「フョードル」の言葉に「しかし、少なくともあなたは帝王じゃありませんからね」とこらえきれなくなった「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」がつぶやきました。

もう、「フョードル」の道化が、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」と掛け合いながらはじまっていますね。

ここからしばらく、「フョードル」と「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の漫才が続きますが、この二人、修道院の中にいること自体が何かの間違いのような気がしますし、もっともこの場所にふさわしくない人たちだと思います。

「フョードル」は、「ええ、そうですとも、わたしゃ帝王じゃありませんよ。・・・そんなことくらい、わたし自身だって知ってますよ、本当に!・・・いつもわたしはこの調子で、場違いなことを言ってしまうんです!長老さま!」となにやら感激調で叫びました。


そして、「今、長老さまのお目を汚しているのは、本当の道化でございます!」と自分で自分を道化と名乗り、こういうやり方が自分の自己紹介で、昔からの癖でそうしているのであって、ときおり場違いな嘘をわざとついて、みなさんを楽しませて、気に入られようとしていると、そして、「人間はやはり、気に入られなけりゃいけませんからね、そうでしょうが?」と。


2016年8月16日火曜日

138

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は庵室の《形式主義》にひとわたりざっと目を走らせ、射るような視線を長老にそそぎました。

「彼は自分の目を高く買っていた。そんな欠点があるのだ。が、いずれにせよ、彼がすでに五十歳、つまり、聡明で世馴れた、生活の心配のない人間なら必ず自分に対して、ときには意に反してさえ、敬意をいだくようになる年輩になっていることを考慮に入れるなら、大目に目てやるべき欠点である。」

これは、自信過剰ということでしょうか、それを年輩者の「大目に見てやるべき欠点」と言っていますね。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の場合は、自らの思想に基づく批評的で挑戦的な志向がありますので、この庵室内のことすべてが権威的で《形式主義》的なものと捉えて、ある意味用心深くなっているのでしょう。

彼は、「最初の瞬間から」長老が気に入りませんでした。

ここで長老の容姿について書かれています。

まず、長老の顔には「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」以外の多くの者にも気に入らぬと思われるような何かがありました。

それは、彼が小柄で猫背で足が弱く、病気のせいでまだ六十五歳でしかないのに老けて、十くらい上に見えたことと、顔全体がしなびて、細かい小皺におおわれていて、それは特に目のまわりに多く、目は小さく、色は明るいが、「まるで二つのきらきら光る点のように、よくかがやき、すばやく動」きました。

また、白い髪が残っているのは、小鬢のあたりだけで、しょぼしょぼしたまばらな顎ひげがくさび型に生え、しばしば薄笑いをうかべる唇は二本の細引きのように細いのでした。

鼻は長いというほどではありませんでしたが、まるで鳥の嘴のように尖っていました。


以上、いろいろ書かれていますが、要するに老けているということでしょうね。


2016年8月15日月曜日

137

巨大なサイズの聖像画のわきには、「被い金の燦然とかがやく別の聖像画が二枚、さらにそのまわりに、いかにも作り物めいたケルビム天使像や、陶製の卵、嘆きの聖母に抱かれた象牙製のカトリック十字架、過去何世紀かにわたるイタリアの偉大な画家たちの外国製の版画数枚、なぞが飾られてあった。」そうですが、これらの版画は「典雅な高価な版画」と表現されているものです。

そして、「被い金の燦然とかがやく別の聖像画」に訳注が付いていて(聖像画には、顔と手の部分だけを示して、あとを金属で被ったものが少なくない)とあります。

これがどういうものか、ざっと調べてみたのですが、見つかりませんでしたので、後でまた探してみたいと思います。

それから、「ケルビム天使像」の「ケルビム」も調べました。

「旧約聖書の創世記によると、主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた。エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という。「彼はケルブに乗って飛び、」(サムエル記下22章11節)「主はケルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる。ケルブの起源はアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」といわれている。旧約聖書によるとケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その顔は“人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持っていた。…生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。…ケルビムの“全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた”(知の象徴)…ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)…またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている。なお絵画表現において、セラフィムと混同されて描かれているものもある。」

さらに「陶製の卵」はイースターと関係があるかもしれませんが、調べてみました。

「卵を飾る習わしは、キリスト教および復活祭よりもかなり古くから存在する。卵とウサギは、古来より豊壌のシンボルだった。ユダヤ教の過ぎ越しの祭の正餐(セーデル・シェル・ペサハ)では、塩水で味付けをした固ゆで卵が、エルサレムでの新しい命と信仰のシンボルとして食べられる。中央アジアの新年ノウルーズの象徴的な食卓にも卵が必須である。イースター・エッグの起源を語る物語は数多く存在する。1つには、イエス・キリストの復活は赤い卵と同様ありえないとある皇帝が言ったため(マグダラのマリア参照)、さらに言えば、イースター・エッグの伝統は四旬節の間の節制(断食)が終わることを祝うためである。西方教会では、卵は「肉類」と同様に見られ、四旬節の間は食べることを禁じられるのである。同様に東方教会では、血を流さずに採られる卵は酪農食品(乾酪)に分類され、大斎中は肉や魚とともに禁食の対象となる。もう一つの根強い伝統は、イースターを祝うとき友人に赤く染めた卵を贈るというものである。この習慣はマグダラのマリアに起源を持つ。キリストの昇天の後、彼女はローマ皇帝の元に赴き、赤い卵を贈って「イエスが天に上げられた」ことを示した。それから彼女は彼にキリスト教を説き始めたのである。卵が象徴するものは、墓と、そこから抜け出すことによって復活する命である。赤は、卵で示されるように、キリストの血によって世界が救われることを表し、またキリストの血によって人類が再生することを表している。卵そのものが復活のシンボルであり、休止の間もその内側に新しい生命を宿している。卵を固ゆでにするのは鶏が生み出した食べ物を浪費しないためで、同じ理由からスペインの伝統的な復活祭の料理オルナソ(hornazo)は固ゆで卵を主要な材料とする。イギリス北部ではイースターの時期にエッグ・ジャーピング(egg-jarping)、エッグ・タッピング(egg-tapping)またはエッグ・ダンピング(egg dumping)として知られる伝統的なゲームが行われる。固ゆでの卵が配られ、個々のプレーヤーは自分の卵を他のプレーヤーの卵にぶつけるのである。最後まで無傷な卵の持ち主が勝者となり、敗者は自分の卵を食べる。このゲームはブルガリアや他の国でも見られ、アフガニスタンでも新年を祝って行われる。また、アメリカ合衆国では野原に卵を散らばして、それを探す「エッグハンティング」大会が行われ、中でも1985年4月に開催された「ガリソン・エッグハンティング大会」では、ゆで卵延べ7万2000個と飾り卵4万個を散らばして行われ、ギネスブックに掲載された。」

引用ばかり長くなりました。

さて、これらの高価なものとならんで、どこの市場でも数カペイカで売っているような、聖者や殉教者や高僧などのロシアの庶民的な石版画が何枚かありました。


別の壁には、現代や過去のロシア大主教たちの石版肖像画も数枚ありました。