2016年9月7日水曜日

160

「フョードル」と「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の嘘と道化の入り混じったような、実のない、なじりあいを聞いていて、「ゾシマ長老」もうんざりしたのかもしれませんね。

彼は急に席をたって「申しわけありませんが、みなさん、ほんの数分だけ中座させていただきます」と訪問者全員をながめやりながら言いました。

この訪問者たちより先にきて、「ゾシマ長老」を待っている人がいるから、とのこと。

「ゾシマ長老」は最後に「それから、やはり嘘はいけませんよ」と明るい顔で「フョードル」に言い添えました。

このあとの部分を読むと、中座時間が「ほんの数分だけ」なんてことはないと思うのですが、「ゾシマ長老」はここで少し時間をおいて、ふたりの頭の冷めることを期待したのでかもしれません。

それにしても「ドミートリイ」は、遅いですね。


この会合は「ドミートリイ」なしでは本題に入るわけにはいきませんので、「フョードル」はあえて、無駄話で時間を稼ごうとしているのでしょうか、しかし、それにしてもこの内容はひどすぎて、時間稼ぎなんぞどうでもいいくらいな混乱状態になってしまっていますね。


2016年9月6日火曜日

159

「なんて下らない、何もかも下らん話だ」と「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」はつぶやきました。

彼はまたしても誰に語るというのでもなく、つぶやいています。

そして、続けて、自分は、ひっとしたら、いつか話したかもしれないが、あなたに話したのではなく、それも人から聞いた話しで、と前言をひっくり返したいいかげんなことを言いだします。

「あれはパリで、さるフランス人から・・・」ロシアでは礼拝式の席で『殉教者列伝』を朗読するということを聞いた、その人は、たいそう学問のある人で、ロシアの統計学を専門に研究し、ロシアの永年暮らしていました、自分自身は『殉教者列伝』なぞ読んだこともないし、読むつもりもない、「だいたい食卓ではいろんな話が出るものでしょうに?わたしらはそのとき、食事をしていたんですからね・・・」と。

「フョードル」は「そう、あんたはそのとき食事をしていた、だけどこっちは信仰をうしなったんですよ!」とからかいました。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は「あなたの信仰なんぞ、わたしには関係ないんだ!」とどなり声をあげそうになりましたが、自分を抑え、軽蔑をこめて「あなたって人は文字どおり、手を触れるものをすべて汚してしまうんですな」と言いすてました。


ふたりとも、周りが見えていないというか、場所をわきまえていないひどい会話ですね。


2016年9月5日月曜日

158

「ゾシマ長老」は「フョードル」の質問について「いいえ、正しくありません」と答えました。

図書係の司祭修道士は、どの『殉教者列伝』にも、それに類した話は出ておらず、どの聖者のことをそんなふうに書いてあったのかと問い返しました。

「フョードル」は、人から聞いた話なので、だれのことかは知らない、欺されたのではないかと言う人もいる、そして、その話をした人は、なんと、さっきディドロの件で腹を立てていた「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」なのだ、と。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は、あなたと口をきくことなんぞ、全然ないのだからそんな話をしたおぼえはない、と言いました。

「フョードル」は、その話は先おととしのことで、わたしに直接話してくれたわけではなく、わたしがいる席で話したのだ、そのこっけいな話で、わたしは信仰をぐらつかされたので、おくおぼえている、ミウーソフさんはそんなことは知らなかったでしょうが、「わたしは信仰を揺さぶられて家に帰り、それ以来ますますぐらつき放しでさあ。そうですとも、ミウーソフさん、あんたがたいへんな堕落の原因だったんですよ!」それは、ディドロどころの騒ぎじゃないですよと、悲痛に息まいて言いました。

この発言により「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は手ひどく傷付けられましたが「フョードル」がまたしても演技していることは、もはやだれの目にもまったく明らかだったとのことです。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」もいい加減な話しをしたものですが、「フョードル」もそんなことを執念深く覚えていて、この席でいろいろと脚色を加えて披露するなど、なかなかたいしたものです。

そして、「フョードル」は信仰を揺さぶられたのは、内心ではたぶん全く堕落と思っていないんじゃないかと思いますが、ここでは悲痛に息まくという演技をしながら「ミウーソフさん、あんたがたいへんな堕落の原因だったんですよ!」と人のせいにしています。


つまり、自分自身にも他者にも嘘をついていますから、「ゾシマ長老」の言う「人々や自分自身に対する絶え間ない嘘」の見本のようですね。


2016年9月4日日曜日

157

書かれていませんが、「フョードル」は「ゾシマ長老」に言われて、ふたたび椅子に腰を下ろしたのでしょう。

そして、今度は跳ね起きて「聖者さま!そのお手に接吻させてくださいまし」と言って、長老の痩せた手にすばやく接吻しました。

「フョードル」は、「まさしく腹を立てるのは楽しいものです。実にうまいことをおっしゃる。今まできいたことがないほどです。」と「ゾシマ長老」の言葉をほめていますが、次に続く発言を聞くと、本当のことをずばりと指摘されて内心は穏やかではなかったのかもしれません。

彼は、自分はこれまでの一生、楽しくなるほど腹を立てつづけてきました、それは美学のために腹を立てていたのであって、つまり、腹を立てるということは楽しいだけじゃなく、格好いいもので、「長老さま、あなたはこれをお忘れでしたよ、格好いいという点を!」と言い、この自分の思いつきに感心したのか、「こいつは手帳に書きとめておこう!」と言います。

もしかすると、「フョードル」は会話の引き出しが多いと思いますが、これは本当に手帳愛好者なのかもしれませんね。

しかし、「フョードル」は「美学」というほどに、腹を立てて怒っている印象はありませんので、こういう発言は不思議に思います。

さらに「フョードル」は続けて言います。

「わたしは、嘘つきでした。文字どおり一生、毎日毎時間、嘘をつきどおしでした。」

これは、先ほどの「人々や自分自身に対する絶え間ない嘘」という「ゾシマ長老」の言葉に対応しています。

「本当に、嘘は嘘の父でございますな!」と言って、すぐにそれを否定して嘘の息子で十分でしょうと言っていますが、ここはどうでもいいところでしょうが、たぶん延々と嘘が連鎖するということなので、下向きに息子と言い直したのでしょう。

そして、先ほど自分が嘘を言ったディドロのことぐらいなら、人に害を与えないから差し支えないが、他の言葉だと「害を及ぼしますですからね」と、全く反省のないマイペースな調子で言います。

さらに、自分はおととしから、おたずねしようと思っていたことがあると言い、『殉教者列伝』のことを持ち出します。

「ミウーソフさんに、話の腰を折らぬようにおっしゃってくださいまし。」と釘をさしておいて、『殉教者列伝』のどこかに、何とかいう奇蹟の聖者について書かれたところがあり、信仰のために迫害を受け、最後に首をはねられたところ、立ち上がって、自分の首を拾い上げ、『やさしく接吻した』そうです。


「それも、首を両手に抱えて永いこと歩きつづけ、『やさしく接吻した』と記してあるのですが、長老さま、あれは本当でございますか?」と「ゾシマ長老」や神父たちに尋ねました。


2016年9月3日土曜日

156

「ゾシマ長老」は「フョードル」に対して、嘘をつかぬというのは、おのれに嘘をつかぬということだと説明します。

「肝心なのは、おのれに嘘をつかぬことです。おのれに嘘をつき、おのれの嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも、周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分をも他人をも軽蔑するようになるのです。だれをも尊敬できなくなれば、人は愛することをやめ、愛を持たぬまま、心を晴らし、気をまぎらすために、情欲や卑しい楽しみにふけるようになり、ついにはその罪業たるや畜生道にまで堕ちるにいたるのです。」

そして、「これもすべて、人々や自分自身に対する絶え間ない嘘から生ずるのですぞ。」と。

続けて「ゾシマ長老」は、「おのれに嘘をつくものは、腹を立てるのもだれより早い、なにしろ、腹を立てるということは、時によると非常に気持ちのよいものですから、ではありませんか?なぜなら本人は、だれも自分を侮辱した者などなく、自分で勝手に侮辱をこしらえあげ、体裁をととのえるために嘘をついたのだ、一つのシーンを作りだすためにおおげさに誇張して、言葉尻をとらえ、針小棒大に騒ぎたてたのだ、ということを承知しているからです。それを自分で承知しておりながら、やはり真っ先に腹を立てる。腹を立てているうちに、それが楽しみになり、大きな満足感となって、ほかならぬそのことによって、しまいには本当の敵意になってゆくのです・・・」

以上、「ゾシマ長老」の話は、たいへん重要なことを語っていると思うのですが、「フョードル」の言動を目の当たりにして、直接それを批判しているようにみえます。

「おのれに嘘をつかぬ」ということは、よく言われることですが、「おのれ」の正体が自分自身で、はっきりとつかめぬうえに、「嘘」と「本当=真実」と境界が不明瞭ですから、この言葉を感性的に理解することは、難しいと思います。

ただ、態度として、また、方向性として、自分に嘘をつかないということを保持するべきだと言うのは理解できそうです。

ここで言う「嘘をつく」は、いわゆるだますこととは、ニュアンスが少し違っています。

「人々や自分自身に対する絶え間ない嘘」とは、性向としてその人に身についた態度のことを言っているように思います。

「おのれに嘘をつくものは、腹を立てるのもだれより早い」の部分はよくわかりません。

一般的には怒りは感情的なものですが、その裏には「おのれに嘘をつく」ということが存在しているのでしょうか。

「ゾシマ長老」がここまで、言った時に、「フョードル」は席を立ったようです。

長老は、「お掛けなさい」とたしなめています。


そして、「・・・それもやはり、すべて偽りの行為でしょうが・・・」と厳しい発言をしています。


2016年9月2日金曜日

155

「永遠の生命を受けつぐには、わたしはどうすればいいのでしょう?」という「フョードル」の質問に対し、長老は目をあげ、微笑して答えました。

十分に分別を持っているのだから、どうすればよいのかは、自分自身でわかっているはずで、「①飲酒や②饒舌にふけらず、③情欲に溺れず、とりわけ④金の亡者に」なってはいけないし、自分の所有する酒場も「全部がむりなら、せめて二つでも三つでも閉店」した方がよいと。

そして「大事なのは、いちばん大切なのは、⑤嘘をつかぬことです」と。

いきなりの質問に対して、すべて相手を見通しているかのようなすばらしい回答だと思います。

①飲酒②饒舌③情欲にふけらず、④金の亡者になってはいけない、そして、全部が無理なら二つでも三つでも酒場を減らすようにと実現可能と思われる具体的な提案をし、⑤嘘をつかないことが一番大切と強調しています。

これだけのことを、とっさに答えられる「ゾシマ長老」はさすがですね。

「フョードル」は、⑤嘘をつかないことと言われたのを、先ほどのディドロについての発言で、自分で行った創作を付け加えたことかと思い、長老に確認します。

しかし、「フョードル」は、それがそんなことでないことを自分で知っていて、そのような皮相な理解をする自分を演出していたのかもしれないですね。


作者は「フョードル」についてそう思わせるだけの複雑な描き方をしているのではないでしょうか。


2016年9月1日木曜日

154

長老の言葉に対して、「フョードル」はまるで「ふざけているのか、それとも本当に感動しきっているのか、容易には決めかね」ぬような内容のことを喋ります。

「わが家にいるように楽にしろ、ですって?つまり、ごく自然な態度でよろしいので?ああ、もったいない、それじゃもったいなさすぎます。でも、感激してお言葉に甘えさせていただきます!ですが、長老さま、ごく自然な態度になどど、わたしを挑発なさらないでください、危険を冒すのはおやめになったほうが・・・わたし自身だって、自然な態度にまでは、とてもなれるものじゃございませんよ。これは、長老さまをお守りするために、あらかじめご注意申しあげているんです。まあ、そのほかのことは依然として未知の闇に包まれていますけどね、もっとも、なかにはわたしを漫画に仕立てあげようと望んでる人もいるようですが。これは、ミウーソフさん、あんたのことを言ってるんですよ。それから長老さま、あなたさまには、これこのとおり、歓喜の情を吐露します!」

そう言って、「フョードル」は中腰になり、両手を上にあげて、唱えます。

それに続く発言は圧巻だと思います。

「汝を宿せし母胎は幸いなるかな、汝を育てし乳首は幸いなるかな、特に乳首こそ!(訳注 ルカによる福音書第十一章にある言葉をもじったもの)長老さまは今『そんなに自分のことを恥ずかしく思わぬことだ。それがすべての原因なのだから』とご注意くださいましたが、あの一言でわたしという人間をすっかりお見通しになり、肚の底までお読みになった感がございますね。まさにそのとおりで、わたしはいつも、人さまの前に出るたびに、俺はだれより下劣なんだ、みんなが俺を道化と思いこんでるんだ、という気がするもんですから、そこでつい『それならいっそ、本当に道化を演じてやれ、お前らの意見など屁でもねえや、お前らなんぞ一人残らず俺より下劣なんだからな!』と思ってしまうんです。わたしが道化なのも、そんなわけなんでして、羞恥心ゆえに道化になるんです、長老さま。もとはと言えば羞恥心が原因でして。あばれたりするのも、もっぱら猜疑心のせいなんです。だって、かりにわたしが入っていっても、みんながすぐにわたしを感じのよい聡明な人間と見なしてくれると確信さえしていたら、わたしだってそのときはさぞ善良な人間になることでしょうからね!わが恩師!」

訳注で、(ルカによる福音書第十一章にある言葉をもじったもの)とありますが、あえて文語体の『ルカ傳福音書』、第11章27節を調べましたら「此等のことを言ひ給ふとき、群衆の中より或女、聲をあげて言ふ『幸福なるかな、汝を宿しし胎、なんぢの哺ひし乳房は』」とあります。

(・・・もじった)というのは、「特に乳首こそ!」の部分ですね。

こんなことは、どの訳にも書かれていません。

そして、彼はひざまづいて言います。

「永遠の生命を受けつぐには、わたしはどうすればいいのでしょう?」と。

「フョードル」の一連の発言は、どこまでが本気でどこまでが道化ているのかわかりませんね。


こういう曖昧さのある発言を聞く「ゾシマ長老」もやりきれないと思いますが、さすがに多くの人を見てきた人だけあって対応はすばらしいです。