2017年2月7日火曜日

313

『エレウシスの祭』の引用を終えた「ドミートリイ」は続けて言います。

「ただ問題は、どうやってこの俺が大地ととわの契りを結ぶかってことだよ。俺は大地に接吻もしないし、大地の胸を切りひらきもしない。いっそ俺は百姓か牧夫にでもなるべきなんだろうか?俺はこうして歩みつづけながら、いったい自分が悪臭と恥辱の中に落ちこんだのか、光と喜びの世界に入ったのか、わからない。そこが困るんだな、なにしろこの世のすべては謎だよ!よく、恥さらしな放蕩のいちばん深いどん底にはまりこむようなことがあると(もっとも、俺にはそんなことしか起らないけど)、俺はいつもこのケレースと人間についての詩を読んだものだ。じゃ、この詩が俺を改心させただろうか?とんでもない!なぜって、俺はカラマーゾフだからさ。どうせ奈落に落ちるんなら、いっそまっしぐらに、頭からまっさかさまにとびこむほうがいい、まさにそういう屈辱的な状態で堕落するのこそ本望だ、それをおのれにとっての美と見なすような人間だからなんだ。たからほかならぬそうした恥辱の中で、突然俺は讃歌をうたいはじめる。呪われてもかまわない、低劣で卑しくともかまわないが、そんな俺にも神のまとっている衣の裾に接吻させてほしいんだ。一方では同時に悪魔にのこのこついて行くような俺でも、やはり神の子なんだし、神を愛して、それなしにはこの世界が存在も成立もしないような愛を感じているんだよ。

ここで「ドミートリイ」は「なぜって、俺はカラマーゾフだからさ。」と言っています。

この「カラマーゾフ」の意味は前にもこのような言い方で出てきたのですが、いったい何でしょう。

はじめに出てきたのは「ミウーソフ」のつぶやきで『よほど鈍いし、カラマーゾフ的良心てやつだな』というのがありました。

ここでの意味は厚顔無恥で恥知らずというような意味でしょう。

それから「ラキーチン」は「アリョーシャ」にたいして、「どうして君はそんなに純情なんだろう?君だってカラマーゾフなんだぜ!」とか「君自身もやっぱりカラマーゾフだよ、完全にカラマーゾフだ。要するに、血筋がものを言うってことだな。父親譲りの色好みで、母親譲りの神がかり行者ってわけだ」とも言っています。

まず、「ドミートリイ」について、愚かであるが正直であって女好きでもある、これが彼の定義であり内面的本質のすべてである、これは父親から卑しい情欲を譲り受けたからだ、と。

また、「君の家庭じゃ情欲が炎症を起こすほどなっていて」とか「イワン」については、「イワン」だって、カラマーゾフなのだから同じである、女好きと、強欲と、神がかり行者!「ここにカラマーゾフ家の問題のすべては存するんだ」とも。

つまり、「カラマーゾフ」的ということの何であるかは非常に重要なことだと思いますが文中に出てくるものに限ってそれを羅列してみれば、①厚顔無恥の恥知らず、②色好み、③卑しい情欲、④神がかり行者、⑤愚か、⑥正直、⑦強欲、そんなものでしょうか。

これが全体を見れば、「カラマーゾフ」的とはどんなものであるか、何となくわかります。

これらが「カラマーゾフ」の血筋だということで他者からもそう思われているし、自分たちもそう思っているということですね。

だから「ドミートリイ」は自分の中の大地というか、ロシア的な大地に足のついた神への思いを胸に抱くことによって「カラマーゾフ」的なものと戦ってきたのでしょう。

人間の心の中の神と悪魔の戦いですが、それは、善と悪というふうに単純に分かれるのではなく、頭ではわかっていても、自分の中の正直な気持ちの中では神も悪魔も肯定もし否定もするところがあり、複雑に絡み合っていて、時にはその区分さえわからなくなってくることがあるということが問題なのではないでしょうか。


だから「ドミートリイ」は「なにしろこの世のすべては謎だよ!」と言うのでしょう。


2017年2月6日月曜日

312

「ミーチャ」は「アリョーシャ」の手をつかんで言いました。

「なあ、アリョーシャ、屈辱だよ、今だって屈辱に泣いているのさ。この地上で人間は、恐ろしいほどいろいろなことに堪えていかなけりゃいけないんだ。人間には恐ろしいほどたくさん災厄がふりかかるんだよ!この俺を、コニャックばかり飲んで放蕩の限りをつくしている、将校の肩章をつけたただの下種野郎にすぎない、なんて思わないでくれ。俺はね、ほとんどこのことばかり考えているんだ。この虐げられた人間のことばかり考えているんだよ、ほらを吹いていないかぎりはな。これからは、ほらを吹いたり、空威張りしたりしたくないもんさ。俺がそういう人間のことを考えるのは、つまり自分自身がそういう人間だからさ。

卑しい世界から人が
心で立ち直るためには、
古き母なる大地を
とわの契りを結ぶことだ。
(訳注 ドミートリイは自己の告白を『歓喜の歌』によってではなく、同じシラーの詩の『エレウシスの祭』によってはじめている)

この詩はシラーの詩の『エレウシスの祭』だったのですね。

詩の入り口の「さて赤ら顔したシーレンは、足どりふらつく驢馬にのり、」と出口の「卑しい世界から人が心で立ち直るためには、古き母なる大地をとわの契りを結ぶことだ。」というのがポイントで、うまく次の話に繋がります。

そして、「ドミートリイ」は将校の肩章を付けているのですね。

これは、日常的にいつもつけていると思うのですが、今でも軍の将校ということで収入を得ているのでしょうか。

シラーの詩の『エレウシスの祭』の全文をネットでさがしたのですが見つかりませんでした。

「ウィキペディア」などの「エレウシス」を調べると「エレウシス(古代ギリシア語: λευσίς / Eleusis)は、古代ギリシアのアテナイに近い小都市。ギリシア神話に登場する女神デーメーテールの祭儀の中心地として知られる。また、古代の悲劇詩人アイスキュロスの生誕地でもある。現在はエレフシナ(現代ギリシャ語: Ελευσίνα / Elefsina)と呼ばれる。ギリシャ共和国アッティカ地方に属する基礎自治体(ディモス)であり、西アッティカ県の県都である。」とありました。

また、「エレウシスの密儀」というのが有名で、次のような説明がありました。

「デーメーテールの祭儀はエレウシスの祭儀、またはエレウシスの密儀と呼ばれ、古典古代時代最もよく知られた密儀宗教(英語版)のひとつであり、しばしばたんに「密儀」として言及されることもある。エレウシスの密儀は紀元前1700年頃ミケーネ文明の時代に始まったと言われている。マーティン・P・ニールソン(英語版)は、この密儀が「人を現世を超えて神性へと到らせ、業の贖いを保証し、その人を神と成し、その人の不死を確かなものとなす」ことを意図されていたと述べている。その内容を語ることは許されなかったため、断片的な情報のみが伝えられている。参加者の出身地を問わないこと(アリストパネスの断片による)、娘ペルセポネーを探すデーメーテールの放浪およびペルセポネーの黄泉からの帰還の演劇的再現が一連の密儀の中核をなしていたであろうことが推定されている。密儀の参加者には事前に身を浄めることが要求され、その密儀は神の永遠なる浄福を直接見ることであると言われた。キリスト教が広まり、ローマ皇帝テオドシウス1世により多神教的異教の祭儀が禁止されると、エレウシスの密儀も絶えた。ドイツの哲学者フリードリヒ・シェリングは、その著書の中で、前哲学的思惟の形態としてのエレウシスの密儀についてしばしば論じている。」

「ドミートリイ」の引用で使われている「ケレース」については、「ケレース(Ceres)は、ローマ神話に登場する豊穣神、地母神、地下神。長母音を省略してケレスとも表記される。英語表記ではシリーズ、シアリーズとも呼称される。古くからギリシア神話のデーメーテールと同一視されたため、ローマ神話での本来の性格はよく分かっていない。ローマ神話におけるエピソードも、ほとんどは本来デーメーテールのものである。なお、ギリシア神話のケーレスとは無関係である。また、大地の女神であることから冥界の神ともされ、死人を出した家では、ケレースに供物を捧げることによって死の穢れを祓うことが行われていた。その祝祭ケレーアーリア(Cerealia)は、古くは4月19日に執り行われたが、紀元前3世紀末以降は、4月12日からの8日間にわたって行われた。これは4月15日の大地母神の祝祭とも深く関係している。ケレースは農業、特に穀物の収穫を司るため、英語で穀物を意味するシリアル(cereal)の語源となった。また、ビールを意味するスペイン語(es:cerveza)やポルトガル語(pt:cerveja)の語源である。初めて発見された小惑星、ケレスの名は、この女神に由来している。ケレースはその権能から、古来よりしばしば各国の貨幣にその姿が登場し、近代ではフランスの20フラン金貨に多く見られる。」と書かれていました。


「ケレース」はシリアル(cereal)の語源というのが面白いのですが、ここでは「ケレース」=「デーメーテール」のことですね。


2017年2月5日日曜日

311

「ドミートリイ」は、マイペースで詩などまた引用しています。

「人間よ、気高くあれ!」というゲーテの詩『神性』の一節ですが、ゲーテという名前は「ドミートリイ」からは出てきませんが、これからの会話の中にも長文の詩が引用されるところをみるとかなりの知識人と言えるでしょう。

だから、「アリョーシャ」は待つことに決めました。

「アリョーシャ」は本当は急いでいるんですが、ここでは「ドミートリイ」がこのような調子ですから合わせるしかないと思ったのでしょう。

実際に、「アリョーシャ」は自分の仕事はすべて、今やここだけにあるのかもしれないと、さとったのです。

「ミーチャ」はテーブルに片肘をつき、掌に頭をのせて、しばらく考えこんでいました。

二人とも黙っていました。

今まで「ドミートリイ」と書かれていましたが、ここで急に「ミーチャ」という愛称に変わっていますが、何か意味があるのでしょうか。

確かに、「ミーチャ」と呼んだ方がこの場の二人の関係がより密着した親密なものになり物語にぐっと引き込まれるように感じます。

「アリョーシャ」と「ミーチャ」が言いました。

「お前だけは笑わないだろうな。俺はこの告白を・・・シラーの歓喜の歌で・・・はじめたいんだ。『歓喜の歌(アン・ディ・フロイデ)』!だけど、俺はドイツ語を知らないんでな、知っているのはアン・ディ・フロイデだけさ。酔払いのおしゃべりだなんて思わんでくれよ。俺は全然酔ってやしないんだから。コニャックはまさにコニャックにちがいないけど、俺が酔払うには二壜は必要だよ。

さて赤ら顔したシーレン(訳注 酒神バッカスの従者シーレーノス)は、
足どりふらつく驢馬にのり、

どころが俺は一壜の四分の一も飲んじゃいないから、シーレンじゃない。シーレンどころか、強靭(シリヨーン)なもんだ。きっぱり決心したんだからな。駄洒落なんぞ言ってごめんよ。今日はお前には、駄洒落どころか、いろいろ赦してもらわなきゃいけないんだ。まあ心配するな、そう脱線はしないさ。用事の話をしているんだから、すぐ用件に入るよ。むだ話をするつもりはないんだ。待てよ、あれはどういうんだっけ・・・」

彼は首を起して、考えこみ、だしぬけに感激調で唱えはじめた。

「裸の未開な穴居民族は
おずおずと岩山の洞窟に身を隠し、
遊牧民族は野をさすらって
田や畑を踏みあらす。
狩猟の民は槍や弓矢を持ち、
剣幕もおそろしく森を駆けめぐる・・・
身を隠す場所もない岸辺に
波に打ち捨てられし者こそ哀れなれ!

母なるケレース(訳注 ローマの豊穣の女神)は
さらわれしペルセポネー(訳注 冥界の王ハーデースが彼女に恋して、さらった)
のあとを追い
オリンポスの山を駆けくだる。
眼下には荒れはてた土地が横たわり、
安らぎの場所も、女神のためのもてなしも
そのあたりのいずこにもなく、
どの神殿を見ても
敬神の色さえ見あたらず。

野の実りや、甘きぶどうの房が
うたげの席をいろどることもなく、
血ぬられし祭壇には
屍の残りがただくすぶるのみ。
悲しみの眼差しもて
ケレースがいずこを見ても、
いたるところ、目に映るは
深き屈辱に泣く人の姿ばかり!」

嗚咽がふいに「ミーチャ」の胸奥からほとばしりでました。


彼は「アリョーシャ」の手をつかみました。


2017年2月4日土曜日

310

「ドミートリイ」の質問はよくわかりませんが要するに、臨終の席で最後の頼みごとをされたらきいてくれるだろうか、という単純な内容だと思います。

「アリョーシャ」は「僕ならはたしますね、でも、いったい何なのか、言ってください、早く言ってくださいよ」と言いましたが、これは読者の声でもあるでしょう。

「早く、か・・・ふむ。あせるなよ、アリョーシャ。お前は急いでるもんで、心配なんだな。今となっちゃ、べつにあわてることはないさ。今や世界は新しい道へ踏み出したんだ。ああ、アリョーシャ、お前が感きわまるまで考えぬいたことがないのは、残念だよ!もっとも、俺は何を言ってるんだろう?お前が考えぬいたことがない、だなんて!俺も間抜けだな、何を言ってるんだろう?
人間よ、気高くあれ!(ゲーテの詩『神性』の一節)
これはだれの詩だっけ?」

そうですね、「アリョーシャ」は急いでいるんです。

このあたりは、物語の進行に読者の気持ちが随行しているように思います。

「アリョーシャ」が急いでいるのは、「枕も敷布団もかついでくるんだ、こんなところにお前の匂いも残さんようにしろ」と言った「フョードル」のところへも行く必要があったからですね。

前にこう書かれています。

「おまけに父が待っているし、ことによると先ほどの命令をまだ忘れずに、気まぐれを起こしかねなかったから、どちらへも間に合うよう急がなければならなかった。」

しかし、「ドミートリイ」は「フョードル」が「枕も敷布団もかついでくるんだ、こんなところにお前の匂いも残さんようにしろ」と叫んだことを知らないのですから、「今となっちゃ、べつにあわてることはないさ」と、そんなに呑気な話をしているのですね。

彼は、「カテリーナ・イワーノヴナ」のことなら、自分がその件について何もかも全面的な決定権をにぎっていると思っているのでしょう。

そして、「アリョーシャ」に「お前が感きわまるまで考えぬいたことがないのは、残念だよ!」と言ったことを反省して、「人間よ、気高くあれ!」というゲーテの詩『神性』の一節を口にします。

全文は以下のような詩です。

『神性』
人間は気高くあれ、
情けぶかくやさしくあれ!
そのことだけが、
我らの知っている
一切のものと
人間とを区別する。

我ら知らずして
ただほのかに感ずる
より高きものに幸あれ!
人間はそのより高きものに似よ
人間の実際の振舞いが
それを信じさせるようであれ。

自然は
無感覚だ。
太陽は
善をも悪をも照らし、
月と星は
罪人にもこの上ない善人にも
同様に光り輝く。

風と溢るる流れと
雷鳴とあられとは
ざわめきつつ進み、
だれ彼となく捕らえては、
急ぎ通り過ぎる。

同じように運命も
人々の中に探りの手を入れ、
少年のけがれない
巻き毛を捕らえるかと見れば、
罪を犯せる
はげ頭をも捕らえる。

永劫不変の
大法則に従い、
我らはみな
我らの生存の
環をまっとうしなければならぬ。

ただ人間だけが
不可能なことをなし得(う)る。
人間は区別し
選びかつ裁く。
人間は瞬間を
永遠なものにすることができる。

人間だけが、
善人に報い、
悪人を罰し
癒し救うことができる。
またすべての惑いさまよえる者を、
結びつけ役立たせる。

我らはあがめる
不滅なものたちを。
彼らも人間であって
最上の人間が小さい形で
なし、あるいは欲することを
大きな形でなすかのように。

気高い人間よ、
情けぶかくやさしくあれ!
うまずたゆまず
益あるもの正きものをつくれ。
そしてかのほのかに感ぜられた
より高きもののひな型ともなれ!


新潮文庫「ゲーテ詩集」高橋健二訳より


2017年2月3日金曜日

309

「ドミートリイ」は立ちあがって、考えこんで、額に指をあてました。

「彼女のほうからお前をよんだんだな、手紙か何かよこしたのか、だからお前だって行くんだろうに、でなけりゃお前が行くはずはないものな?」

「ドミートリイ」の勘は当たっていますね、それに「アリョーシャ」の方から「カテリーナ・イワーノヴナ」に会う必要がないわけですし、「リーズ」からその手紙を渡された時に、彼女は、あの人は修行中の身なので絶対に行かないと母親に話したと言ったと書かれていましたので、修行中の僧は余程のことがない限りそういう外出は認められなかったのでしょう。

「これが手紙ですよ」と「アリョーシャ」はポケットから手紙を出しました。

「ドミートリイ」はすばやく走り読みしました。

この手紙は、前に「来てほしいという切なる頼み以外、何の説明もない謎ありげな短い手紙」と書かれていました。

「これで裏道づたいに来たというわけか!ああ、神さま!弟を裏道づたいに来させて、わたしに出会わせてくださって、ありがとうございます、ちょうどお伽噺の黄金の魚が年とったばかな漁師の網にかかったように。いいかい、アリョーシャ、きいてくれ。今こそ俺はもう何もかも話すつもりでいるんだ。せめてだれかに言っておく必要があるんだよ。天井の天使にはもう話したのだが、地上の天使にも話しておかなけりゃ。お前は地上の天使だからな。すっかり話をきいて、判断して、赦してくれ・・・俺には、だれか自分より立派な人間に赦してもらうことが必要なんだ。あのね、もし二人の人間がふいにいっさいの地上的なものと縁を切って、異常な世界へとび去ってゆくとしたら、でなけりゃ、少なくともそのうちの一人が、とび去るなり、身を滅ぼすなりする前に、もう一人のところへやってきて、僕のためにこれこれのことをしてくれと、いまだかつてだれにも頼んだことがなく、臨終の床に横たわってはじめて頼めるようなことを言ったとしたら、はたして相手はそれをきかずにいられるだろうか・・・もし親友であり、兄弟であるとしたら?」

ここで「ドミートリイ」の言う「お伽噺の黄金の魚が年とったばかな漁師の網にかかった」とは、1812年に出版された『グリム童話集』のことでしょう。

こんな話です。

KHM 85  黄金の子ども 
貧乏な漁師の夫婦がいました。ある日漁師は海で金の魚を網ですくいました。金の魚は命乞いをして漁師に御殿とお料理の出る戸棚を引き換えに、そしてこのことは誰にも話さないという約束をしました。家に帰ると御殿と料理があり、驚いた女将さんはしつこく理由を聞き出し、秘密を洩らしたら御殿と料理は消えうせました。もう一度漁師は金の魚を捕らえ、御殿と料理を得ますが再度女将さんにばらしてもとの黙阿弥になります。3度目に金の魚と捕えると、6つに魚の身を切って、二切れは女将さんに食べさせ、二切れは馬にやって、二切れは地面に埋めると福を授かると約束しました。女将さんは二人の黄金の子を生み、地面からは二本の金のユリが生え、馬は二頭の金の子馬を生みました。金の子どもは大きくなって旅をしましたが、黄金の体なので人から馬鹿にされ,1人の息子は家に帰りました。1人の息子は熊の毛皮を着て森には入り、美しい娘に会って結婚しました。ある日鹿を追って深い森にゆき魔法使いの女によって石ころに変えられました。家の黄金のゆりの花が倒れたことでこの変を知った弟が魔法使いを退治して兄を助け出し、二人の兄弟は幸せな人生を過ごしました。

「ドミートリイ」の話でわからないのは、後半の部分で、「もし二人の人間がふいにいっさいの地上的なものと縁を切って、異常な世界へとび去ってゆくとしたら、でなけりゃ、少なくともそのうちの一人が、とび去るなり、身を滅ぼすなりする前に、もう一人のところへやってきて・・・」という部分です。


「二人の人間」というのは、「ドミートリイ」と「グルーシェニカ」でしょうか、そして心中するとか失踪するとかいうことでしょうか、「少なくともそのうちの一人が」というのは、「ドミートリイ」のことだと思いますが、「もう一人のところへ」というのが、誰をさしているのかがわかりません。


2017年2月2日木曜日

308

「ドミートリイ」の長い話のあと、今さらながらという気もしますが、どこに行くのかと聞かれた「アリョーシャ」は、「お父さんのところへですけど、その前にカテリーナ・イワーノヴナのところに寄るつもりだったんです」と答えました。

「彼女と、それから親父のところへだって!ほう!まさに、どんぴしゃりだ!」と「ドミートリイ」は答えます、そして、自分がお前つまり「アリョーシャ」を呼ぼうとしたのは何のためだと思うかと聞き、続けます。

「俺がお前に会いたがり、心の襞という襞、肋骨という肋骨でまでお前を求め、渇望していたのは、何のためだと思う?まさしく、お前を親父のところへ、そのあと彼女、つまりカテリーナ・イワーノヴナのところへ使いにやって、それで彼女とも親父ともけりをつけるためなんだぜ。天使を派遣するってわけだ。だれをやってもいいようなもんだが、俺としちゃ、ぜひ天使に行ってもらう必要があったんだよ。それなのに、お前が自分から彼女と親父のところへ行ってくれるとはな」

普通の会話ならまず最初に、何をしに行くのかと聞くと思うのですが、ここは「ドミートリイ」の精神状態が普通ではありませんし、もともと自己中心なところがありますのでこのようになるのでしょう。

「アリョーシャ」は「カテリーナ・イワーノヴナ」のところに行ってから「フョードル」のところへ行こうとしていたのですよね。

しかし、「ドミートリイ」は「フョードル」のところに行ってから「カテリーナ・イワーノヴナ」のところへ行ってくれと言う、「ドミートリイ」にとってはその順番が大切なのです。

なぜ順番が大切なのかは後でわかりますが、いずれにせよ「カテリーナ・イワーノヴナ」には別れを告げる気持ちでいるのでしょう。

「アリョーシャ」は「ほんとに僕を使いにやるつもりだったの?」と病的な表情を顔にうかべて言いました。

そう聞くのも無理はありません、まったく偶然に通りかかっただけなのですから。

「ドミートリイ」は「待てよ、お前はそのことを知っていたのか。見たところ、お前はすぐに何もかもさとったらしいな。でも、黙っていてくれ、今のところ黙っていてくれよ。憐れむなよ、泣かんでくれ!」と言いました。


ここで、何をさとったと言っているのでしょう、わかりませんが、「アリョーシャ」が「フョードル」はともかくとして、直接的な接点のない「カテリーナ・イワーノヴナ」に会うということの意味を考えると、何かがピンときたのでしょう。


2017年2月1日水曜日

307

「ドミートリイ」は続けます。

「お前だけなんだ、それともう一人《卑しい女》に惚れて、そのために一生を棒にふっちまったよ。だけど、惚れるってことは、愛するって意味じゃないぜ。惚れるのは、憎しみながらでもできることだ。おぼえておくといい!ま、今のところは陽気に話そう!ほら、このテーブルの前に座れよ、俺は横に坐って、お前を眺めながら、すっかり話してきかせるから。お前はずっと黙ってていいから、俺がすっかり話してきかせるよ。なぜって、ついにこの時期が来たのさ。もっとも、俺の判断では本当に小さな声で話す必要がありそうだな、だってここには・・・ここには、まったく思いもかけぬ聞き手が現われかねないものな。何もかもいま説明するよ、続きはいずれってやつだ。いったいどうして俺がこんなにお前に会いたがっていたと思う、こんなに待ちこがれていたと思うね、この何日というものずっと、それに今もさ?(なにしろ俺がここに錨をおろして、もう五日になるんだからな)。その間ずっとだぜ?それはね、お前だけには何もかも話しとこうと思ったからなんだ、そうしなけりゃならないからさ、お前が必要だからなんだ、明日になれば俺は雲の上からとびおりるからなんだ、明日は俺の人生が終って、また新しくはじまるからなんだよ。お前は山の上から奈落にころげおちる気持を味わったことがあるかい、夢にでも見たことがあるかい?ところが俺が今とびおりるのは、夢の中の話じゃないんだ。でも俺はこわくなんぞない、だからお前もこわがらなくていいんだよ。つまり、こわいんだけど、いい気持なんだ。いや、つまり、いい気持というんじゃなく、歓喜なんだな・・・畜生、どうだって同じことだ。強い精神だろうと、弱い精神だろうと、女々しい精神だろうと、何でもいいんだ!自然をたたえようじゃないか。見ろよ、陽射しはあふれ、空はあくまでも清く、木の葉は緑、まるでまだ夏のようだな、午後三時すぎなのに、この静けさ!お前はどこへ行くところだったんだい?」

「ドミートリイ」は「惚れる」と「愛する」の違いを説明していますが、この辺の言葉の使い方は、時代や国ごとにその意味するところが違ってきますので一概には言えませんが、ここでは単純に男女の恋愛のことに限って言えば、「惚れる」というのは好きだという気持ちが嵩じたもので、「愛する」というのは、片思いあるいは、双方からの片思いというかの段階のことだと思います。

いや、「惚れる」にも片思いの場合があると思いますので、両方の違いを説明するのはむずかしいですね。

「ドミートリイ」に言うように「憎しみ」という要素を加えるならば、「愛する」中には「憎しみ」は含まれませんが、「惚れる」の中には「憎しみ」が含まれる場合もあるということは確かですね。

「愛憎」という言葉もありますが、男女の関係のみならず、人の心の中の分析は複雑です。

「ドミートリイ」はコニャックのボトル半分くらいを飲んで、自分では四分の一と言っていますが、酔っているのでしょう、この会話も勢いづいて、少々くどくて、話の核心になかなか至りません。

「だってここには・・・ここには、まったく思いもかけぬ聞き手が現われかねないものな。」と言っているのは、あとでわかるのですが「グルーシェニカ」のことです。

「ドミートリイ」はこんなところで、もう五日も「グルーシェニカ」の来るのを見張っているんです。

そして、「明日になれば俺は雲の上からとびおりる」と言っていますが、もう何事か大変なことが起こるという覚悟はできているのですね。

彼にも何がどうなるかはまだわかっていませんが、どういう結果になってもそれは何か運命的なことであり、「俺の人生が終って、また新しくはじまる」と言っています。

ものすごく感情が高揚し、まさに「歓喜」だと言っていますが、後で「ドミートリイ」が言うようにシラーの『歓喜の歌』が彼の頭の中にあるのでしょう。


しかしここでは会話の内容に状況説明的なことは含まれていても、「ドミートリイ」が「アリョーシャ」にずっと話したかったという肝心な内容はまだ何も話されていません。