2017年9月21日木曜日

539

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。しかし、その一方、もしだれかがお前に関係なく人間の良心を支配したなら、そう、そのときには人間はお前のパンすら投げ棄てて、自己の良心をくすぐってくれる者についてゆくことだろう。この点ではお前は正しかった。なにしろ、人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。それはまさにそのとおりだが、しかし結果はいったいどうだ。お前は人間の自由を支配する代りに、いっそう自由を増やしてしまったではないか! それともお前は、人間にとって安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを、忘れてしまったのか? 人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。しかも、それをしたのがだれかと言えば、人間のために自分の生命を捧げに来た男なのだからな! 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。・・・・

ここで切ります。

「パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。」というのは無意味な発言ですね。

なぜ人間はパンを与えればひれ伏すがの説明にはなっていません。

この辺で大審問官の言っていることの筋みちが立たなくなってきます。

あれほど、パン第一主義的な発言をしていたのですが、人間の良心を支配すれば「パンすら投げ棄てて」そちらについていくと言っています。

しかも、「人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな」とまで言いだしました。

そして「何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう」と。

「いさぎよしとせぬ」という言葉がここで使われているのはおかしいですね。

そして、「パンすら投げ棄てて」の文脈の不整合さを何とかしたいと思ったのでしょうか、唐突に「たとえ周囲のすべてがパンであったとしても」なんていう言葉を挟んでいます。

つまり、人間は「何のために生きるかという確固たる概念」が「地上のパン」より上位に来ているばかりか、その概念がなければ生きていけないとまで言っています。

これまでの話は何だったんでしょう。

また彼は「人間の自由」を支配すべきだと思っているのですが、ここでいう「良心の自由」もその「人間の自由」に含まれており、キリストはその「良心の自由」について、それを増やしたと批判しています。


そしてキリストは「異常なもの、疑わしいもの、曖昧なもの」を人間に与えて、人間に「良心の自由」をもって判断させるという苦痛をも与えたということでしょうか。


2017年9月20日水曜日

538

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。彼らは神を創りだし、互いによびかけた。《お前たちの神を棄てて、われわれの神を拝みにこい。さもないと、お前たちにも、お前たちの神にも、死を与えるぞ!》たぶん、世界の終りまでこんな有様だろうし、この世界から神が消え去るときでさえ、同じことだろう。どうせ人間どもは偶像の前にひれ伏すのだからな。お前は人間の本性のこの主要な秘密を知っていた。知らぬはずがない。それなのにお前は、すべての人間を文句なしにお前の前にひれ伏させるために提案された、地上のパンという唯一絶対の旗印をしりぞけてしまった。しかも、自由と天上のパンのためにしりぞけたのだ。そのあとお前が何をしでかしたか、よく見るといい! そして何もかもが、またしても自由のためになのだからな! お前に言ってくが、人間という不幸な生き物にとって、生まれたときから身にそなわっている自由という贈り物を少しでも早く譲り渡せるような相手を見つけることくらい、やりきれぬ苦労はないのだ。だが、人間の自由を支配するのは、人間の良心を安らかにしてやれる者だけだ。パンといっしょにお前には、明白な旗印が与えられることになっていた。・・・・

ここで会話を切ります。

今度は、宗教戦争のことが話されています。

そして、人間が神を創りだしたと言っています。

その人間と人間の創りだした神が、別の人間とその別の人間が創りだした神と「跪拝の統一性という欲求」のために戦うのです。

「この世界から神が消え去るときでさえ」というのは、宗教がなくなるとき、まさに今起きつつある革命の時のことなのでしょう、その時になっても人間は偶像崇拝をやめないのだと。

まさに、その通りに歴史は動いたと思います。

「人間の本性」は、支配者を求めるということが言われているのですね。


キリストはそのことを知っていながら、そしてどうすれば支配者になれるかその仕組みを知っていながら、「自由と天上のパンのためにしりぞけた」のです。


2017年9月19日火曜日

537

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・彼らをふたたび欺くわけだ。なぜなら、お前を二度とそばへ寄せつけはしないからな。この欺瞞の中にこそ、われわれの苦悩も存在する。なぜなら、われわれは嘘をつきつづけなければならなぬからだ。これこそ、荒野での第一の問いの意味したものだし、お前が何よりも大切にした自由のために拒絶したものも、これにほかならない。また、一方、この問いにはこの世界の偉大な秘密がふくまれてもいたのだ。《パン》を認めていれば、お前は、個人たると全人類たるとを問わずすべての人間に共通する永遠の悩みに答えることになったはずだった。その悩みとは、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることなった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょに(九字の上に傍点)ひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにはかならない。・・・・

内容的にも途中ですが、ここで切ります。

「荒野での第一の問いの意味したもの」は「欺瞞」だと言っています。

「マタイによる福音書」によれば、この「第一の問い」というのは、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」というものでした。

この意味が、「欺瞞」ということならば、あまりにも抽象的すぎて理解に苦しみます。

「パン」というのは、これは実際のパンのことでもあるし、拡大解釈すれば食のことだけでなく、生きるための物質的なあらゆる条件ということになります。

たとえば、「石」と「パン」が交換可能なものとして、A=Bという形で置かれていることとは違うと思います。

つまり悪魔は、AをBに変換するマジックをキリストに要求しているのではなく、全能の神であるなら、すべてを作り変えろと言っているのではないでしょうか。

それにしてもよくわかりません。

この「第一の問い」の意味することと言うのは、悪魔にとってそれが結局は、本当のことを表に出せず、キリストの存在を隠しつづけなければならないということであり、それは悪魔の主観にほかならないとおもうのですが。

この辺の理解については自分ではさっぱりわかりません、いろんな人が解説をしているはずですので、いずれ読んでみようと思います。

また、「第一の問い」には秘密が含まれており、それは人間の「跪拝の統一性という欲求」というのです。

人間は、みんながいっせいにひれ伏す対象を探すものだと言うことですが、これは違うように思うのですが。

いわゆる広い意味での神ということですね。


それは、キリストであったり、お金であったり、イデオロギーであったりするかもしれませんが、これらは人間が要求したものではなく、現象としてあるのではないでしょうか、それとも人間に本来的にそうした欲望があるからなのでしょうか。


2017年9月18日月曜日

536

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・彼らはそのときになってまた、地下の埋葬所(カタコンブ)に隠れているわれわれを探しまわり(というのも、われわれはふたたび弾圧され、迫害されているだろうからな)、見つけだして、訴えることだろう。《われわれに食を与えてください。天上の火を約束した人が、くれなかったのです》そうすればもう、われわれが塔を完成してやる。なぜなら、食を与える者こそ塔を完成できるのだし、食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ。お前のためにな。いや、お前のためにと、われわれは嘘をつくのだ。ああ、われわれがいなかったら、人間どもは決して、決して食にありつくことはできないだろう! 彼らは自由でありつづけるかぎり、いかなる科学もパンを与えることはできないだろう。だが、最後には、彼らがわれわれの足もとに自由をさしだして、《いっそ奴隷にしてください、でも食べものは与えてください》と言うことだろう。ついに彼ら自身が、どんな人間にとっても自由と地上のパンとは両立して考えられぬことをさとるのだ。それというのも、彼らは決してお互い同士の間で分ち合うことができないからなのだ! 彼らはまた、自分たちが決して自由ではいられぬことを納得する。なぜなら、彼らは無力で、罪深く、取るに足らぬ存在で、反逆者だからだ。お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することにできない何百万、何百億という人間たちはいったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間だけで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てばそれでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。彼らは罪深いし、反逆者でもあるけれど、最後には彼らとて従順になるのだからな。彼らはわれわれに驚嘆するだろうし、また、われわれが彼らの先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承諾してくれたという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう、-それほど最後には自由の身であることが彼らには恐ろしくなるのだ! しかし、われわれはあくまでもキリストに従順であり、キリストのために支配しているのだ、と言うつもりだ。・・・・

ここで切ります。

何か、難しくて、重要なことが話されているように思います。

そして悪魔は「食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ」と言います。

このこと、つまり悪魔の言う「食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ」がこの話の前提になっていますが、ここではそれを疑うことなく読み進めなくてはなりません。

そして、「お前のためにな。いや、お前のためにと、われわれは嘘をつくのだ」と言っていますが、「お前」というのはキリストのことですね。

《いっそ奴隷にしてください、でも食べものは与えてください》という言葉は人間としての尊厳を欠いた言葉ですね。

人間は、①分かち合うことできず、②無力で、③罪深く、④取るに足らぬ存在で、⑤反逆者で、⑥かよわい、⑦永遠に汚れた、⑧永遠に卑しい種族とまで言っています。

そして、自由と地上のパンとは両立できないと。

「天上のパン」と「地上のパン」というのは何でしょうか。

「地上のパン」はわかりますが、キリストが約束した「天上のパン」とは。

「何千、何万の人間がお前のあとに従う」とのことですので「天上のパン」というのはキリスト教の信者のことですね。

そして「天上のパンのために地上のパンを黙殺することにできない何百万、何百億という人間たち」とおうのはそれ以外の人です。

悪魔は、そのような人も「われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ」と言います。

「われわれが彼らの先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承諾してくれたという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう」この中の「彼らを支配することを承諾してくれた」というのは、彼らに頼まれて支配するということですから、一筋縄ではいかない支配と被支配の構図です。

そして悪魔はさらに、自分たちを神と見なすようになった民衆に対して、そうではなくて神はキリストでありキリストのためにしていることだと言うというのですからさらに複雑です。

つまり、民衆を支配するためにキリストを使うということです。

悪魔によると、今のキリスト教社会は共産主義によって滅ぼされるのですね。

そして、それも共産主義はその理念通りに完成されることはなく、「ふたたび恐ろしいバベルの塔がそびえ」ることになるのです。


なんだか、この歴史観は当たっているように思えます。


2017年9月17日日曜日

535

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・自分で判断してみるがいい、お前と、あのときお前に問いを発した悪魔と、いったいどちらが正しかったか? 第一の問いを思いだすのだ。文字どおりでこそないが、意味はこうだった。《お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらで行こうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生れつき不作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかったからなのだ! この裸の焼野原の石ころが見えるか? この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう。もっとも、お前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのをやめはせぬかと、永久に震えおののきながらではあるがね》ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。お前は、人はパンのみにて生きるにあらず、と反駁した。だが、お前にはわかっているのか。ほかならぬこの地上のパンのために、地上の霊がお前に反乱を起し、お前とたたかって、勝利をおさめる、そして人間どもはみな、《この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!》と絶叫しながら、地上の霊のあとについて行くのだ。お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの叡智と科学との口をかりて、《犯罪はないし、しがたって罪もない。あるのは飢えた者だけだ》と公言するようになるだろう。《食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!》お前に向ってひるがえす旗にはこんな文句が書かれ、その旗でお前の教会は破壊されるのだ。お前の教会の跡には新しい建物が作られる。ふたたび恐ろしいバベルの塔がそびえるのだ。もっとも、この塔も昔のと同様、完成することはないだろうが、いずれにせよ、お前はこの新しい塔の建設を避けて、人々の苦しみを千年分も減らしてやることができたはずなのだ。なぜなら、人々は千年もの間この塔に苦しみぬいたあげく、われわれのところへやってくるにきまっているからな!・・・・

ここで切ります。

悪魔は「人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかった」と言います、そして服従を求めています。

つまり、キリスト=自由、悪魔=服従の対立なのです。

人間は自由のために千年苦しんだ、「人はパンのみにて生きるにあらず」と理想を掲げたが、そのために千年苦しんだ。

たしかに人間は動物ではないので「人はパンのみにて生きるにあらず」は正しいのはあるが、パンのみで生きることすら実際に人間にとって困難であり、その困難さはさまざまな不幸とともに現在もあり続ける。


つまり服従を避けつづけて生きていくために、言葉を変えれば、ただ食べるためだけのことで、実際にそれだけのことで人間は千年苦しんできた、あげくのはてに、新しい思想のもとに新しい支配のシステムが完成されようとしているがそれも中途半端であり失敗に終わるだろう、そして最後には食べるため、生存するために自由を手渡し悪魔に服従を望むということでしょうか、そしてそれは何を意味するのでしょうか。


2017年9月16日土曜日

534

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・一例としてためしに今、もしあの恐ろしい悪魔の三つの問いが福音書から跡形もなく消え失せてしまい、それを復元して福音書にふたたび記入するために、新たな問いを考えだして作る場合を想定しうるとしたら、そしてそのために支配者や高僧、学者、哲学者、詩人など、この地上のあらゆる賢者を集めて、《さあ、三つの問いを考えて作るがいい、だがその問いは事件の規模に釣り合うだけではなく、そのうえわずか三つの言葉、わずか三つの人間の文句で、世界と人類の未来の歴史をあますところなく表現しうるようなものでなければならぬぞ》と課題を与えるとしたら、一堂に会した地上の全叡智は、はたしてあのとき力強い聡明な悪魔が荒野で実際にお前に呈した三つの質問に、深みや力から言って匹敵できるようなものを何かしら考えだせるとでも、お前は思うのか? これらの質問を見ただけで、またそれらの出現した奇蹟を見ただけで、お前の相手にしているのが人間の現在的な知恵ではなく、絶対的な永遠の知恵であることが理解できるはずだ。なぜなら、この三つの問いには、人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言されているのだし、この地上における人間の本性の、解決しえない歴史的な矛盾がすべて集中しそうな三つの形態があらわれているからだ。当時このことはまだ、さほど明らかではなかったかもしれない。なにしろ未来はうかがい知れぬものだったからな。しかし、すでに十五世紀をへた現在では、この三つの問いの中で何もかも実にみごとに推測され、予言され、ぴたりと的中しているので、もはやこの問いに何一つ付け加えることも、差し引くこともできないということが、よくわかるだろう。・・・・

ここで区切ります。

「三つの問い」のことが語られています。

読んでいると、これはいったい誰が語っているのかわからなくなりますが、叙事詩ですから、「イワン」が創作した語り手でしょう。

この「三つの問い」が「世界と人類の未来の歴史をあますところなく表現しうる」ものであり、「人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言されているのだし、この地上における人間の本性の、解決しえない歴史的な矛盾がすべて集中しそうな三つの形態があらわれている」と最大限の評価を与えています。

この本文にはもちろん「マタイによる福音書第四章」は出てきませんが、その内容はキリスト教の文化圏では常識なのでしょうか。

何の知識も無く、本文だけを読み進めていくと、なにやらわかりずらいところです。

「三つの問い」は「人間の現在的な知恵ではなく、絶対的な永遠の知恵」として、実際には言葉であらわせぬ深遠なものとして存在しており、それが福音書の中で「人間の文句」として人間に理解できる形で表現されているのですね。


そして、その「三つの問い」の中の言葉は十五世紀をへた現在、完璧に的中していると言っています。


2017年9月15日金曜日

533

「でも、警告や指示に不足はなかったはずだというのは、どういう意味です?」

「アリョーシャ」がたずねました。

「そこが老審問官のぜひとも言わねばならぬ肝心の点でもあるわけさ。『聡明な恐ろしい悪魔が、自滅と虚無の悪魔が』と老審問官は言葉をつづけたのだ。『偉大な悪魔が、かつて荒野でお前と問答を交わしたことがあったな。福音書には、悪魔がお前を《試みよう》としたかのように伝えられているが(訳注 マタイによる福音書第四章)、本当にそうだろうか? そして、悪魔が三つの問いという形でお前に告げ、お前が拒否し、福音書の中で《試み》とよばれているあの言葉よりも、いっそう真実なことを何かしら言いえたたろうか? 実際のところ、もしこの地上でかつて真の衝撃的な奇蹟が成就されたことがあるとすれば、それはあの日、つまりあの三つの試みの行われた日にほかならない。あの三つの問いの出現こそ、まさしく奇蹟が存しているからだ。・・・・

ここで切ります。

ここで老審問官は「悪魔」を「偉大な」と言っており、「福音書」の中の記述を必ずしも事実であるとは考えていないように思えます。

常識的にはキリストは光輝く善であり、「悪魔」はその反対に位置するものですが、老審問官は別の位置に立ってこの両者を眺めているかのようです。

『聡明な恐ろしい悪魔が、自滅と虚無の悪魔が』という表現には彼が「悪魔」をキリストと同格に扱っていることが垣間見えるように思えます。

「マタイによる福音書第四章」です。

「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。」

悪魔がキリストに言った三つの「警告や指示」が「マタイによる福音書第四章」に書かれています。

一つ目は「石をパンに変えろ」、二つ目は「飛び降りろ」、三つ目は「ひれ伏せ」ということです。

キリストはそれぞれの「警告や指示」に行動ではなく、つまり、言われたことを実行せずに言葉で答えています。


それにたいして老審問官は「いっそう真実なことを何かしら言いえたたろうか?」と言っていますが、この疑問符の具体的な意味がわかりません。