2017年9月28日木曜日

546

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・だがそのとき、そのときはじめて人々にとって平和と幸福の王国が訪れるのだ。お前は自分の選良たちを誇りにしているが、お前のはしょせん選ばれた人々にすぎないし、われわれはすべての人に安らぎを与えるのだからな。そのうえさらに、こう言えるのではないだろうか。それらの選ばれた人々や、選ばれた人になりえたはずの力強い人々のうちの大部分は、お前を待っているうちに、しまいに疲れてしまい、自己の精神力や情熱をほかの分野に移してしまったし、今後も移すことだろう、そして最後にはお前に対してその自由(二字の上に傍点)な反旗をひるがえすようになるのだ。だが、お前自身もその旗をひるがえしたのだったな。われわれの下ではあらゆる人が幸福になり、もはやお前の自由にひたっていたころのように、いたるところで反乱を起すことも、互いに滅ぼし合うこともなくなるだろう。そう、人々がわれわれのために自由を放棄し、われわれに服従するときこそ、はじめて自由になれるということを、われわれは納得させてやる。どうだね、われわれの言うとおりになるだろうか、それともわれわれが嘘をつくことになるだろうか? われわれの正しさを、彼らは自分で納得するはずだ。なぜなら、お前の自由とやらがどんなに恐ろしい隷属と混乱に導いたかを、彼らとて思いだすだろうからな。自由や自由な知恵や科学などは彼らを深い密林に引きこみ、たいへんな奇蹟と解決しえぬ神秘の前に据えてしまうので、彼らのうちの反抗的で凶暴な連中はわれとわが身を滅ぼすだろうし、反抗的であっても力足りぬ者は互いに相手を滅ぼそうとし合い、あとに残った弱虫の不幸な連中はわれわれの足もとにいざり寄って、泣きつくことだろう。《そうです、あなたのおっしゃるとおりでした。あなた方だけが神の神秘を支配していたのです。あなた方のところに戻ってまいりますから、わたしたちを自分自身から救ってください》とな。われわれからパンをもらう際に、もちろん彼らは、自分たちの手で獲得したパンをわれわれが取りあげてしまうのは、いっさいの奇蹟なしに分配してやるためだったことを、はっきりとさとるだろうし、われわれが石をパンに変えたりしなかったことにも気づくだろうが、本当の話、彼らはパンそのものより、われわれの手からパンをもらうことのほうをずっと喜ぶだろう! なぜなら、以前われわれのいなかったころには、自分らの稼いだパンが手の中で石ころに変わってしまってばかりいたのに、われわれのところに戻ってくると、ほかならぬその石ころが手の中でパンに変ったという事実は、あまりにも記憶に新ただろうからな。永久に服従するということが何を意味するか、彼らはどんなに高く評価しても評価しすぎることはないのだ! そして、このことをさとらぬかぎり、人間は不幸でありつづけるだろう。・・・・

ここで切ります。

この辺まで話がくると、もう論の展開はなくなり、言葉を変えて繰り返すのみになります。

つまり、キリストは選ばれた者たちだけを幸福にし、選ばれなかった者たちは取り残される、しかも肝心なときに現れず、人々がキリストが現れるのを待つ間にも混乱が起こっている。

悪魔はすべての人間にパンを与え永遠に幸福にし、人々もそのことに納得すると。


これだけを聞けば、悪魔の側に軍杯があがりそうですが。


2017年9月27日水曜日

545

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・実際のところ、お前はあのときすでに帝王の剣を受けとることもできたはずだった。なぜお前はあの最後の贈り物をしりぞけたのだ? あの力強い悪魔の第三の忠告を受け入れていれば、お前は人間がこの地上で探し求めているものを、ことごとく叶えてやれたはずなのに。つまり、だれの前にひれ伏すべきか、だれに良心を委ねるか、どうすれば結局すべての人が論議の余地ない共同の親密な蟻塚に統一されるか、といった問題をさ。なぜなら、世界的な統合の欲求こそ、人間たちの第三の、そして最後の苦しみにほかならぬからだ。人類は全体として常に、ぜひとも世界的にまとまろうと志向してきた。偉大な歴史をもつ偉大な民族は数多くあったが、その民族が偉大であればあるほど、よけい不幸になった。なぜなら、人々の統合の世界性という欲求を、他の民族よりずっと強く意識したからだ。チムールとかジンギスカンといった偉大な征服者たちは、全世界の制服を志して、この地上を疾風のように走りぬけたものだが、その彼らにしても、無意識でこそあったけれど、やはり人類の世界的、全体的統合という、まったく同じ偉大な欲求を示したのだ。世界と帝位とを引き受けてこそ、全世界の王国を築き、世界的な平和を与えることができるはずではないか。とにかく、人類の良心を支配し、パンを手中に握る者でなくして、いったいだれが人間を支配できよう。われわれは帝王の剣を受けとったが、受けとった以上、もちろんお前をしりぞけ、彼のあとについたのだ。そう、人間の自由な知恵と、科学と、人肉食という非道の時代が、さらに何世紀かつづくことだろう。なぜなら、われわれの知らぬうちにバベルの塔を築きはじめた以上、彼らはしょせん人肉食で終るだろうからな。だがそのときこそ、けだものがわれわれのところに這いよってきて、われわれの足を舐め、その目から血の涙をふり注ぐのだ。そしてわれわれはけだものにまがらり、杯をふりかざす。その杯には《神秘!》と書かれていることだろう。・・・・

ここで切ります。

「マタイによる福音書第四章」の三つめの問いは次のようなものでした。

「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。」

そして、「世界的な統合の欲求」、人類の志向していることだと。

チムールとは、「ティムール(ペルシア語: تيمور‎ Tīmūr/Taymūr, 1336年4月8日 - 1405年2月18日)は、中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)。中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。」。

ジンギスカンとは、「チンギス・カン(モンゴル語:Cinggis qagan.svg、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。」


大審問官は、自分たちは帝王の剣を受けとったのですが、人々が「われわれの知らぬうちにバベルの塔を築きはじめた」ので、非道の時代が何世紀か続き、その後にふたたび自分たちのところに泣きついてくるだろうと言うのです。


2017年9月26日火曜日

544

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・強い人たちが堪え忍んだことに、それ以外の弱い人たちが堪えられなかったからといって、何がわるいのだ? 弱い魂があんな恐ろしい物を受け入れられぬからといって、いったい何がいけないのだ? まさか本当にお前は選ばれた者のために、選ばれた者のところへだけやって来たわけではないだろう? だが、もしそうなら、それは神秘であって、われわれの理解すべきことではない。また、もしそれが、神秘であるなら、われわれも神秘を伝道して、《大切なのは心の自由決定でもなければ愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わねばならぬ神秘なのだ》と教えこむ権利があるわけだ。われわれがやったのは、まさにそれさ。われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟(二字の上に傍点)と神秘(二字の上に傍点)と権威(二字の上に傍点)の上にそれを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の群れのように導かれることになり、あれほどの苦しみをもたらした恐ろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを喜んだのだ。われわれがこんなふうに教え、実行してきたのは正しかったかどうか、言ってみるがいい。われわれがかくも謙虚に人類の無力を認め、愛情をもってその重荷を軽しくてやり、われわれの許しさえあれば、人類の意気地ない本性に対して、たとえ罪深いことでさえ認めてやったからといって、はたしてそれが人類を愛さなかったことになるだろうか? いったい何のためにお前は今ごろになってわれわれの邪魔をしに来たのだ? それにどうして黙りこくって、そんな柔和な目でしみじみとわしを眺めている? 怒るがいい。わし自身お前を愛していないのだから、お前の愛なぞほしくない。それに、このわしがいったい何をお前に隠しだてせねばならないのだ? それとも、わしが今だれと話しているか、知らぬとでも言うのか? わしがこれから言おうとすることは、お前にはもうすべてがわかっているはずだ。それくらい、お前の目を見れば読みとれるさ。このわしまで、われわれの秘密をお前に隠すと思うのか? ことによるとお前はその秘密をわしの口からききたいのかもしれんな。それなら、よくきくがいい。われわれはもはやお前にではなく、彼(一字の上に傍点)(悪魔)についているのだ、これがわれわれの秘密だ! もうだいぶ以前からお前ではなく、彼についておるのだ。すでに八世紀にもなる。ちょうど八世紀前、われわれは彼から、お前が憤りとともにしりぞけたものを、つまり、彼が地上のすべての王国を示してお前にすすめた、あの最後の贈り物を受けとったのだ(訳注 紀元七五四年、フランク王のピピンが教皇ステファヌス二世から承認されて国王となり、そのお礼に中部イタリアの土地を教皇領として寄付したことをさす)。われわれは彼からローマと帝王の剣とを受けとり、自分だけが地上の帝王であり唯一の帝王であると宣言したのだ。もっともいまだにわれわれの仕事を完全な仕上げに持ってゆけずにいるけれども。だが、それがだれの罪なのだろう? そう、この仕事はいまだに初期の段階にすぎないけれど、とにかく始められたのだからな。完成までこの先まだ永いこと待たなければならないし、大地はこれからもたくさん苦しみぬくことだろうが、われわれはいずれ目的を達して帝王になり、そのときこそもう人々の全世界的な幸福を考えてやるのだ。・・・・

ここで切ります。

フランク王のピピンはウィキペディアで調べてみましたが、文中で書かれていたような事実のことはさがせませんでした。

教皇ステファヌス二世とは、「752年3月23日に教皇に選出されるが、その3日後に脳卒中で死亡。最も在位期間が短い教皇。教皇冠を受けることなく死亡しているため、正式な歴代ローマ教皇リストから除かれている。「二世」という名称の代を示す序数は欧米では付されておらず「教皇選出者ステファヌス」か、或いは括弧付きで「二世」と表記される。この結果、日本ではステファヌス二世以降は、序数がずれることになり、例えば日本でのステファヌス三世は、欧米ではステファヌス二世と表記されるか、或いはステファヌス二世(三世)と括弧付きで記載される。」とのことです。

しかし、ここで大審問官は、自分が悪魔の側についたのだとはっきりと宣言しました。

キリスト教がなしえなかった不備を修正したのです。


つまりキリスト教が一部の人間にたいしてだけ行ったことを、人間の本当の姿を正しく知ることによって全体に敷衍し、それに応じた対策を施したということなのでしょう。


2017年9月25日月曜日

543

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・お前の偉大な預言者(訳注 ヨハネのこと)は、最初の復活につらなった者をすべて見たがその数は各部族から一万二千人ずつだったと、幻想と比喩に託して語っている(訳注 ヨハネ黙示録第七章)。しかし、彼らの数がそれだけだとしたら、彼らも人間ではなく、神のようなものではないか。彼らはお前の十字架を堪え忍び、いなごと草の根とで生命をつなぎながら、飢えと裸の荒野の何十年かを堪えぬいたのだ。だから、もちろんお前は、自由と、自由な愛と、お前のための自由で立派な犠牲との子らを、誇らしげにさし示してかまわない。だが、彼らがたった数万人でしかなく、それも神にひとしい人々であることを思いだすがよい。そのほかの人たちはどうなのか?・・・・

短いけどここで切ります。

「ヨハネ黙示録第七章」です。

この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。」

大審判官は、選ばれたイスラエルのユダ、ルベン、ガド、アセル、ナフタリ、マナセ、シメオン、レビ、イサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンの十二の部族のそれぞれ一万二千人、合計十四万四千人という数に注目していて、それ以外の人々はどうなるのかと言っています。

たしかに、「ヨハネ黙示録第七章」では、選民ということが大きな問題になりますね。

宗教のような概念的なことに関しては、実数的なことの根拠はないのではないでしょうか。


仏教の経典では、とてつもない桁数をあげてこの辺のことはうまくできていると思いますが。


2017年9月24日日曜日

542

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・人々がお前をからかい、愚弄して、《十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だと信じてやる》と叫んだとき、お前は十字架からおりなかった。お前が下りなかったのは、またしても奇蹟によって人間を奴隷にしたくなかったからだし、奇蹟による信仰ではなく、自由な信仰を望んだからだ。お前が渇望していたのは自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する囚人の奴隷的な歓喜ではなかった。だが、ここでもお前は人間をあまりにも高く評価しすぎたのだ。なにしろ彼らは、反逆者として創られたとはいえ、もちろん囚人だからだ。あたりを見まわして、判断するがいい。すでに十五世紀が過ぎ去ったけれど、お前が自分のところまで引きあげてやったのがどんな連中だったか、見てみるがいい。誓ってもいい。人間というのは、お前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだぞ! その人間に、お前と同じことがやりとげられるだろうか? お前は人間を尊ぶあまり、まるで同情することをやめてしまったかのように振舞った。それというのも、人間にあまり多くのものを要求しすぎたからなのだ。しかも、それがだれかと言えば、自分を愛する以上に人間を愛したお前なのだからな! 人間への尊敬がもっと少なければ、人間に対する要求ももっと少なかったにちがいない。それなら、もっと愛に近かったことだろう。なぜって、人間の負担ももっと軽くなっただろうからな。人間は弱く卑しいものだ。人間が今いたるところでわれわれの権力に対して反逆し、反逆していることを誇っているからといって、それがどうだと言うんだ? そんなものは、子供か小学生の誇りにすぎんよ。教室で造反して、先生を追いだした小さな子供たちと同じさ。だが、子供たちの歓喜にもいずれ終りがやってくる。子供たちにとっては高いものにつくだろう。彼らは寺院をぶちこわし、大地を地で汚すことだろう。しかし、愚かな子供たちもしまいには、たとえ自分たちが造反者であるにせよ、自分の造反さえ持ちこたえられぬ意気地なしの造反者にすぎないことに思いいたるのだ。愚かな涙を流しながら、彼らはやっと、自分たちを造反者として創った神は、疑いもなく、自分たちを笑いものにするつもりだったと認める。彼らは絶望しきってそう言うにだが、彼らの言ったことは神への冒涜になり、そのため彼らはいっそう不幸になるだろう。なぜなら、人間の本性は神への冒涜に堪えられずに、結局はいつも本性そのものが冒涜に対する復讐をするからなのだ。というわけで、不安と混乱と不幸とが、彼らの自由のためにお前があれほどの苦しみに耐えぬいたあとの、人間の現在の運命にほかならない! ・・・・

ここで切ります。

私の記憶にありませんが、十字架にかけられたキリストに対して、下りてみろと叫ぶ場面があったのでしょう。

キリストが神の子なら、奇蹟を起こして十字架から下りることもできるのでしょうが、そんなことをして、人々を驚かせてキリスト教に改宗させることは邪道だと。

そうではなくて、キリストは人間がそれぞれの意思でキリスト教を選びとることを望んだと。

しかし、大審問官は人間は実際のところ弱く卑しい存在だからそんなきれいごとではすまない、つまりキリストは人間をかいかぶっているのだと、そしてそのことで結果的に人間を不幸にしていると。

さらに現在、人間は権力にたいする反逆を行なっているが、これは子供的な未熟な反逆で、子供と同じようにいずれ反省の段階に移行し、その時には大きな代償を払うだろう、そして、人間の本性はそういうものとして創られているからだと。


結局ここで大審問官は人間の現在の運命、つまり現状は不安と混乱と不幸だと言っています。


2017年9月23日土曜日

541

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・地上には三つの力がある。そしてただその三つの力のみが、こんな弱虫の反逆者たちの良心を、彼らの幸福のために永久に征服し、魅了することができるのだ。その力とは、奇蹟と、神秘と、権威にほかならない。お前は第一の力も、第二も、第三もしりぞけ、みずから模範を示した。聡明な恐ろしい悪魔が寺院の頂上にお前を立たせて、《もしお前が神の子なのかどうかを知りたければ、下にとびおりてみるがいい。なぜなら、神の子は天使に受けとめられ、運ばれるので、下に落ちることもないし、怪我もしないと書いてあるのだから。そうしてこそ、お前が神の子かどうか、わかるだろうし、そうしてこそ父なる神へのお前の信仰がどんなものなのかえを証明できるのだ》と言ったとき、お前をそれをきき終ってから、提案をしりぞけ、誘いにのらず、下にとびおりたりしなかった。ああ、もちろんあの場合お前は、神として、誇り高く立派に振舞った。だが人間が、この弱虫な反逆者の種族が、いったい神だろうか? そう、あのとき、一歩踏みだしさえすれば、とびおりようと身動きしさえすれば、とたんに神を試みることになり、神への信仰をことごとく失って、お前が救うために来た大地にぶくかって大怪我をしたにちがいないし、お前を試した聡明な悪魔が大喜びしたにちがいないことを、お前はさとったのだ。だが、もう一度言うが、人間の本性は、奇蹟をしりぞけるように創られているだろうか? 人生のこんな恐ろしい瞬間、つまり心底からのいちばん恐ろしい、根本的な、やりきれぬ疑問に苦しむ瞬間に、心の自由な決定だけですましていられるなんて、そんなふうに人間の本性は創られているのだろうか? そう、お前は自分の偉業が福音書に書きとどめられ、末長く地の果てまで到達することを知っていたので、人間もお前に倣って奇蹟をしりぞけるやいなや、ただちに神をもしりぞけてしまうことを、お前は知らなかった。なぜなら、人間は神よりはむしろ奇蹟を求めているからなのだ。そして人間は奇蹟なしにいつづけることなぞできないため、今度はもう新しい、自分自身の奇蹟を作りだして、祈祷師に奇蹟や、まじない女の妖術にひれ伏すようになる。たとえ自分がたいそうな反逆者で、異端者で、無神論者であったとしてもだ。・・・・

ここで切ります。

地上には、奇蹟と神秘と権威という三つの力があるということですが、これらは神の属性でしょう。

次に二つ目の悪魔の問いです。

「マタイによる福音書第四章」にはこう書かれていました。

「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。」

ここでは、神を疑い試すことはいけないことだという神に対する信の深さ、つまり絶対的な信のあり方が語られています。


しかし、人間の本性はそんな信のあり方になく、たとえ卑近なものであっても奇蹟を信じたがるのだと大審問官は言っています。


2017年9月22日金曜日

540

「イワン」の会話の続きからです。

・・・・お前に惹かれ、魅せられた人間が自由にあとにつづくよう、お前は人間の自由な愛を望んだ。昔からの確固たる掟に代って、人間はそれ以来、自分の前にお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなければならなくなったのだ。だが、選択の自由などという恐ろしい重荷に押しつぶされたなら、人間はお前の姿もお前の心理も、ついにはしりぞけ、反駁するようにさえなってしまうことを、お前は考えてみなかったのか? 最後には彼らは、真理はお前の内にはないと叫びだすだろう。なぜなら、彼らにあれほど多くの苦労と解決しえぬ難題を残すことによって、お前がやってのけた以上に、人間を混乱と苦しみの中に放りだすことなぞ、とても不可能だからだ。こういうわけで、お前自身が自己の王国の崩壊に根拠を与えたのだから、もはやこの点ではだれをも責めてはならないのだ。実際また、お前が提案されたのも、このことではなかっただろうか? ・・・・

ここで切ります。

この中で「善」と「悪」という言葉が出てきますが、この判断こそ人間にとっては困難なことであると言っています。

「善」と「悪」の判断は個々の人間にまかされており、正しく判断しうることもあるし、誤ることもあるでしょう、そういったことの集積が混乱を招き、キリスト教社会の崩壊につながっているということでしょう。


そして、その判断の自由を誰かに手渡せば、人間はもっと楽になれるのだから、悪魔がキリストに提案したのはそのことだと。