2018年8月7日火曜日

859

三 中学生
しかし、「コーリャ」はもうきいていませんでした。

やっと逃げだすことができたのです。

門を出ると、彼はあたりを見まわし、肩をすくめて、「寒い!」と口走ってから、通りをまっすぐ歩きだし、それから市の立つ広場の方へ小路を右に曲がりました。

広場まであと一軒というところまでくると、彼は門のわきで立ちどまり、ポケットから呼び子を取りだして、約束の合図でもするように、力いっぱい吹き鳴らしました。

「呼び子」とは「人を呼び寄せる合図として吹き鳴らす小形の笛。呼ぶ子。呼ぶ子の笛」つまり普通の笛のことですね。

ものの一分と待たぬうちに、木戸から突然、やはり暖かそうな、小ぎれいな、ハイカラとさえ言える外套を着た、頰の真っ赤な十一くらいの男の子がとびだしてきました。

これは予備クラス(訳注 革命前のロシアで、中学一年に上がる前に設けられていたクラス)にいる「スムーロフ」少年で(一方コーリャ・クラソートキンは二年上級だった)、裕福な官吏の息子であり、どうやら両親が名うての向う見ずが腕白小僧である「コーリャ」などとつきあうのを許してくれぬらしく、そのため「スムーロフ」は、明らかに今も、こっそりぬけでてきたようでした。

この「スムーロフ」は、もし読者がお忘れでなければ、二カ月前に溝川をへだてて「イリューシャ」に石を投げた少年のグループの一人であり、あのとき「イリューシャ」のことを「アリョーシャ・カラマーゾフ」に話してきかせた子でした。

(442)で「スムーロフ」は鞄を右側にさげた左ぎっちょの少年として登場していました、そして「アリョーシャ」が「イリューシャ」の方へ行こうとした時に「行かないほうがいいよ、怪我しちゃうよ」と警告するように叫んだ少年です。

「もうまる一時間も待っていたんですよ、クラソートキン」

「スムーロフ」は思いつめた顔で言い、二人の少年は広場に向って歩きだしました。

「遅れちまった」

「コーリャ」が答えました。

「事情があってさ。僕といっしょにいたりして、鞭でぶたれやしないか?」

「いい加減にしてよ。僕が鞭でむたれるとでもいうの? ペレズヴォンも連れてきた?」

「ペレズヴォンもな」

「その犬もあそこへ連れて行くの?」

「こいつもあそこへさ」


「ジューチカを連れてくわけにはいかないさ。ジューチカはもう生きていないんだから。ジューチカは未知の闇の中に消えちまったんだよ」


2018年8月6日月曜日

858

この最後の芸当のときにドアが開いて、「クラソートキナ」夫人の女中をしている、四十くらいの太った、あばた顔の女である「アガーフィヤ」が、どっさり買いこんだ食料品の籠を片手に市場から戻ってきて、戸口に姿をあらわしました。

彼女は立ちどまり、籠を手にさげたまま、犬の芸を見物にかかりました。

「コーリャ」はどんなに「アガーフィヤ」を待ちわびていたかしれないのですが、芸を中断せず、「ペレズヴォン」に一定の時間だけ死んだ真似をさせてから、やっと口笛を吹きました。

犬は跳ね起き、お務めをはたした喜びにとびまわりはじめました。

「ほらほら、犬が!」

「アガーフィヤ」がたしなめるように言いました。

「おい、そこの女性、どうして遅くなったんだい?」

「コーリャ」が凄味をきかせてたずねました。

「そこの女性だって。なにさ、ニキビのくせに!」

「ニキビ?」

「ニキビですともさ。わたしが遅くなったから、どうだっていうんです。遅くなったからには、つまりそれだけのわけがあるんですよ」

ペチカのわきでせかせかと動きまわりながら、「アガーフィヤ」はつぶやきましたが、まるきり不満そうな怒り声でなどなく、むしろ反対に、快活な坊ちゃまと悪口をたたき合う機会のできたことを喜んでいるような、ひどく満足げな口調でした。

「いいかい、おっちょこちょいのおばさん」

ソファから立ちあがりながら、「コーリャ」は切りだしました。

「この世のあらゆる神聖なものや、それ以上の何かにかけて、僕のいない間ずっと、このちびっ子たちのお守りをしていると、誓えるかい? 僕は出かけてくるからね」

「どうして坊ちゃまに誓ったりするんです?」

「アガーフィヤ」は笑いだしました。

「そんなことをしなくたって、見てますよ」

「いや、お前の魂の永遠の救いにかけて誓わなけりゃだめだ。でなけりゃ、僕は出かけないよ」

「それじゃ、出かけなけりゃいいでしょ。わたしの知ったことじゃないんだから。外はひどい寒さだから、家にじっとしてなさい」

「おい、ちびっ子たち」

「コーリャ」は子供たちをかえりみました。

「僕が帰るまでか、でなけりゃ君たちのママが戻ってくるまで、このおばさんが君たちといっしょにいてくれるからね。君たちのママだって、もうとっくに戻っていいはずなんだから。それだけじゃなく、このおばさんがお昼を作ってくれるよ。何か食べさせてくれるだろう、アガーフィヤ?」

「そりゃお安いご用ですとも」

この辺の、「アガーフィヤ」の「コーリャ」に対する対応は、大人の対応ですね。

「じゃ、さよなら、ちびっ子たち。これで安心して出かけられるよ。それからね、おばさん」

「アガーフィヤ」の横を通りしなに、彼は重々しく小声で言いました。

「カテリーナのことで、女の日ごろの浅知恵を吹きこまないようにしてほしいな。この子たちの年を考えてやるんだね。さ、こい、ペレズヴォン!」

「どこへでも行っちまうがいい」

今度はもう怒って、「アガーフィヤ」が食ってかかりました。

「変な子だよ! あんなことを言うなんて、あの子こそ鞭でたたいてやるといいんだ」


「あの子こそ鞭でたたいてやるといいんだ」と言っていますが、「ナースチャ」が「ママは決してあたしたちのことを鞭でぶったりしないわ」と言ったのは、「アガーフィヤ」が戻る前でした。


2018年8月5日日曜日

857

「コーリャ」はまた鞄に手を突っこみ、ほんとうに本物の火薬が少し入っている小さなガラス壜を取りだしました。

(849)で「この鉄道のくだりは、幻の第二部で書かかれる予定であったとも言われる鉄道爆破による皇帝暗殺のことが頭に浮かびます。」と書いたのですが、ここではさらに火薬のことも話題になっていますので、なおさらそう思います。

小さな紙包みの中にはいくつかばら弾も入っていました。

彼はガラス壜の栓をあけて、掌の上に火薬を少しまいてみせました。

「ほらね、ただ火の気のないところのほうがいいね、さもないと爆発して、僕たちみんな粉々にされちまうからね」

効果を添えるために「コーリャ」は警告しました。

子供たちは、楽しさをいっそう強めてくれる、うやうやしい恐怖をこめて、火薬をしげしげと眺めました。

しかし、「コースチャ」にはばら弾のほうが気に入りました。

「ばら弾なら燃えない?」

彼はたずねました。

「ばら弾は燃えないさ」

「僕にばら弾を少しくれない」

哀願するような声で彼は言いました。

「ばら弾なら少しあげるよ。ほら、取りなよ。ただ、僕がくるまで、僕が帰ってくるまで、ママに見せちゃだめだよ。でないと、ママは火薬だと思って、それだけで恐ろしさに死んじゃうからね、君たちはぶたれるだろうしさ」

「ママは決してあたしたちのことを鞭でぶったりしないわ」

すぐに「ナースチャ」がききとがめました。

「知ってるさ、話に色を添えるために言っただけだよ。それに、決してママを欺したりしちゃいけないよ、でも、今度だけは、僕が帰ってくるまでの間だからね。それじゃ、ちびっ子たち、僕は出かけてもいいね、それともだめかい? 僕がいなくても、こわくて泣いたりしないね?」

「泣いちゃうよ」

もう泣きださんばかりになって、「コースチャ」が語尾を長くひっぱりました。

「泣いちゃうわ、きっと泣いちゃうから」

怯えたような早口で、「ナースチャ」も相槌を打ちました。

「ああ、子供だな、厄介な年ごろだよ。しょうがないな、いったいいつまで君たちの相手をしていなけりゃならないんだい。それにしても時間がな、時間だよ、ああ!」

「じゃ、ペレズヴォンに死んだ真似をするように言いつけて」

「コースチャ」が頼みました。

「仕方がない、ペレズヴォンにも一役買ってもらわなけりゃ。こい、ペレズヴォン!」

そして「コーリャ」は犬にあれこれと命令しはじめ、犬は知っている芸を残らず披露しにかかりました。

それはごくありふれた雑種犬くらいの大きさの、むく毛の犬で、何やら灰色がかった薄紫色の毛並みをしていました。

右目がつぶれ、左耳はなぜか裂けていました。


犬はきゃんきゃん鳴いて、とびまわり、サービスにつとめて、後肢で歩いたり、足を四本とも上にあげて仰向けに寝たり、死んだように身動き一つせずに横たわったりしてみせました。


2018年8月4日土曜日

856

「こら、ちびっ子たち」

部屋に一歩踏みこんで、「コーリャ」は言いました。

「どうやら、君たちは危険人物らしいな!」

なぜ「危険人物らしい」のでしょうか。

「ペレズヴォンもいっしょ?」

「コースチャ」がにっこりし、指を鳴らして「ペレズヴォン」をよびはじめました。

「ねえ、ちびっ子たち、僕は困ってるんだよ」

「コーリャ」はしかつめらしく切りだしました。

「君たちにも助けてもらわなけりゃ。アガーフィヤはいまだに帰らないところをみると、もちろん、足でも折ったのさ、それに決ってるよ。ところが僕は出かけなけりゃならないんだ。君たち、僕を行かせてくれるかい、だめ?」

子供たちは心配そうに顔を見合わせました。

にっこりしていた顔が不安をあらわしはじめました。

もっとも、二人ともまだ、何を要求されているのか、完全にはわかっていませんでした。

「僕がいなくても、いたずらなんかしないね? 戸棚にのぼって、足を折ったりしないね? 君たちだけでも、こわがって泣いたりしないだろう?」

子供たちの顔にひどく悲しそうな色がうかびました。

「その代り、君たちにすごいものを見せてあげでもいいんだ。本当の火薬で撃つことができる、銅の大砲だぜ」

子供たちの顔がとたんに明るくなりました。

「大砲を見せて」

顔じゅうをかがやかせて、「コースチャ」が言いました。

「コーリャ」は鞄に片手を突っ込んで、小さなブロンズの大砲を取りだし、テーブルにのせました。

「ほら、どうだい! 見てごらん、車がついてるんだから」

彼は玩具をテーブルの上で少し走らせてみました。

「ちゃんと撃てるんだよ。ばら弾をつめて撃つんだ」

「そして殺しちゃうの?」

「みん殺しちゃうのさ、ただ狙いをちゃんとつけさえすればね」

そして「コーリャ」は、どこに火薬をつめ、どこにばら弾を入れるかを説明し、点火孔の形をした小さな孔を示して、反動もあるのだと話しました。

子供たちはおそろしく好奇心を示してきいていました。

反動があるということが、特に子供たちの想像力をおどろかせました。

「火薬はあるの?」

「ナースチャ」がたずねました。

「あるよ」

「火薬も見せてちょうだい」

かがやくばかりの微笑をうかべながら、彼女は語尾をひっぱって言いました。


「コーリャ」は子供たちの気を惹くのが上手なようですね、ということは、相手が何を考えているのかを察する能力が高いということです。


2018年8月3日金曜日

855

犬は嬉しさのあまり狂ったように跳ね起き、先に立ってとびだしました。

「コーリャ」は玄関の土間を突っ切ると、《ちびっ子たち》のドアを開けました。

二人とも先ほどと同じようにテーブルの前に坐っていましたが、もう本は読んでおらず、むきになって何事か議論してました。

この子供たちは興味をひく人生のさまざまな問題について、しょっちゅう議論し合っているのですが、その際いつも勝ちを制するのは姉である「ナースチャ」のほうでした。

「コースチャ」は姉に同意できないと、ほとんどそのたびに「コーリャ」のところへ上訴しにきましたし、「コーリャ」が結論を下せば、もはやそれは双方にとって絶対的な裁決になりました。

今度の《ちびっ子たち》の議論は多少「コーリャ」の興味をひいたので、彼は少しきいてみようと戸口に立ちどまりました。

子供たちは彼がきいているのを見て、いっそう熱心に自分の議論をつづけました。

「あたし絶対に、絶対に信じないわ」

「ナースチャ」がむきになって言いました。

「赤ちゃんは、お産婆さんが畑のキャベツの畝の間で見つけてくるんだなんて。今はもう冬で、畝なんか全然ないんだもの、お産婆さんだってカテリーナに女の赤ちゃんを持ってこられるはずがないわ」

「ひゅー!」

「コーリャ」はひそかに口笛を鳴らしました。

「でなけりゃ、こうかもしれないわ。赤ちゃんはどこかから運ばれてくるんだけど、でもお嫁に行った人のところにだけなのよ」

「コースチャ」はまじまじと「ナースチャ」を見つめ、思慮深げにききながら、思案していました。

「ナースチャ、姉さんってばかだね」

やがて彼はむきにもならずに、しっかりした口調で言いました。

「だってさ、カテリーナはお嫁に行ってないのに、どうして赤ちゃんができるのさ?」

「ナースチャ」はひどくいきりたちました。

「あんたなんか、何もわからないのよ」

苛立たしそうに彼女はさえぎりました。

「もしかすると、旦那さんがいたんだけど、今は牢屋に入っているのかもしれないわ。だから赤ちゃんを産んだんじゃないの」

「ほんとに旦那さんが牢屋に入ってるの?」

実際的な「コースチャ」が重々しくたずねました。

「それとも、こうかしら」

「ナースチャ」は最初の自分の仮説をすっかり放棄し、忘れ去って、勢いこんでさえぎりました。

「あの人に旦那さんはいないわ、それはあんたの言うとおりよ。でも、お嫁に行きたいと思って、お嫁に行くことばかり考えて、いつもそのことばかり考えつづけていたもんだから、とうとう旦那さんの代りに赤ちゃんができたんだわ」

「そうにきまってるさ」

すっかり言い負かされた「コースチャ」が同意しました。

「はじめっからそう言ってくれないんだもの、僕わからなかったんだ」


この辺の、《ちびっ子たち》つまり「ナースチャ」と「コースチャ」の議論の内容はどうでもいいと思いますが、ここではこの二人が「興味をひく人生のさまざまな問題について、しょっちゅう議論し合っている」というのが、何か今後の展開と結びつくことがあるのでしょうか。


2018年8月2日木曜日

854

姉娘の「ナースチャ」は、もう八歳で、本が読めたし、下のちびっ子である七つの男の子「コースチャ」は、姉さんに本を読んでもらうのが大好きでした。

「ナースチャ」は「アナスタシア」の愛称で、「コースチャ」は「コンスタンチン」の愛称だそうです。

もちろん、「コーリャ」はもっとおもしろい遊びをしてやることもできました。

つまり、二人を一列にならばせて兵隊ごっこをしたり、家じゅう使って隠れん坊をしてもよかったのです。

これまでにも一度ならず、そうして遊んでやったことがあるし、遊んでやるのはきらいではありませんでした。

そのため、一度なぞクラスじゅうに、「コーリャ・クラソートキン」は家にかえると下宿人の子供たちと馬車ごっこをやって、副馬(そえうま)の役で跳ねたり、首を曲げたりしているという噂が広まりかけたほどですが、「コーリャ」は、かりに自分が同年代の十三歳の仲間と《今のような時代に》馬車ごっこをやったりすれば、たしかに恥ずべきことであろうが、自分は《ちびっ子たち》をかわいがっていればこそ、その子たちのためにそんな遊びをしてやるのであり、彼の感情をとやかく言ったりすることはだれにもできぬはずだということを明らかにして、傲然とそんな非難を一蹴しました。

副馬(そえうま)とは「馬車などで、主になって引く馬に付き従わせる馬。また、乗り換え用の馬。」とのことです。

その代り《ちびっ子たち》は二人とも、彼をあがめていました。

しかし、今の場合、遊びどころではありませんでした。

彼は自分自身のさる重大な、一見ほとんど秘密に近いような用件を目の前に控えていたからです。

にもかかわらず、時間はたってゆくのに、子供たちを預けていかれそうな「アガーフィヤ」は相変わらず市場から戻る気配がありませんでした。

彼はもう何回か玄関の土間を突っ切って、ドクトル夫人のドアを開け、気がかりそうに《ちびっ子たち》の様子をのぞいてみましたが、子供たちは彼の言いつけどおり、本の前に向っており、彼がドアを開けるたびに、今度こそ入ってきて何かすてきな楽しいことをしてくれるだろうと期待しながら、無言のまま口を大きく開いてにっこりしました。

しかし、「コーリャ」は精神的な心配事にとらえられていましたので、部屋には入りませんでした。

ついに十一時が鳴りました。

あと十分しても、《いまいましい》「アガーフィヤ」が戻らなければ、出かけようと、彼は最終的に固く決心しました。

もちろん、自分がいなくとも、こわがったり、いたずらしたり、こわさに泣いたりしない、という約束を《ちびっ子たち》から取りつけたうえでです。

こう考えて、彼はオットセイか何かの毛皮の襟のついた綿入れの冬外套を着こみ、鞄を肩にかけ、《こんな寒空》に外出するときには必ずオーバーシューズをはくようにという、これまでに一度ならずくりかえされた母の頼みにもかかわらず、玄関の土間を通りしなにオーバーシューズを軽蔑の目で眺めやっただけで、長靴のまま外に出ました。


彼の外套姿を見ると、「ペレズヴォン」は全身を神経質にふるわせながら、必死に尾で土間をたたきはじめ、哀れっぽい鳴き声さえあげかけましたが、「コーリャ」は愛犬のこれほど熱心なひたむきな様子を見ても、それが規律を乱すものであると結論し、ほんの一分ほどでこそありましたが、さらにベンチの下に伏せさせておりて、もう玄関へ出るドアを開けてからやっと、だしぬけに口笛を吹いてやりました。


2018年8月1日水曜日

853

二 子供たち
ところで、この寒さのきびしい、北風の吹きすさぶ十一月の朝、「コーリャ・クラソートキン」少年は家にくすぶっていました。

日曜なので、学校はありませんでした。

しかし、すでに十一時が鳴り、《さるきわめて重大な用件で》どうしても外出しなければならぬというのに、彼は家の中にただ一人、それもまったく留守番として残っているのでした。

それというのも、この家に住む大人たちがみな、ある火急の、風変りな事情で、出払っていたからです。

「クラソートキナ」未亡人の家には、彼女自身が使っている住居から玄関の土間をへだてて独立した、二部屋からなる住居がもう一つ、人に貸してあり、幼い子供を二人かかえた医者の奥さんがそこを借りていました。

いつもそうなのですがどういう構造の家なのかわかりません。

この奥さんは「クラソートキナ」夫人と同じくらいの年恰好で、大の親友でしたが、当の医者はすでに一年近く前にどこかへ出かけたきり、最初はオレンブルグへ、それからタシケントへ行ったとかで、もう半年近く何の便りも消息もなかったため、もし、あとに残されたドクトル夫人の悲しみを多少なりと和らげてくれる「クラソートキナ」夫人との友情がなかったとしたら、まったく悲しみの涙にかきくれていたにちがいありませんでした。

小さい子供もいるのに、この医者は駆け落ちでもしたのでしょうか、それともどこかで亡くなったのでしょうか、いなくなり方が普通ではありません、このまま不在が続くとなると奥さんもたいへんです。

ところが、運命の迫害をさらに完全なものにする必要があったのか、土曜から日曜にかけての夜中に、ドクトル夫人のただ一人の召使いである「カテリーナ」が、夫人にとってはまったく思いもかけぬ話ながら、だしぬけに、朝までに子供を産むつもりだと告げられました。

「カテリーナ」とは召使いに「ドミートリイ」の婚約者と同じ名前を使いましたね。

どうして、それまでだれ一人気付かなかったのか、だれにとってもほとんど奇蹟にひとしかったのです。

肝をつぶしたドクトル夫人は、まだ余裕のあるうちに、町の産婆がこういう場合のために設けたさる施設へ「カテリーナ」を連れて行こうと判断しました。

彼女はこの女中をとても大事にしていましたので、ただちにこの考えを実行して、女中をそこへ連れてゆき、そのうえ付き添っていてやることにしました。

さらに、もう朝になってから、どういう理由でか、「クラソートキナ」夫人の友情と協力が必要になりました。

「クラソートキナ」夫人なら、こういう場合、だれかに何かを頼んだり、力になってやったりすることができるからでした。

ここのところの事情は本筋から外れているにしても、今までの緻密な構成とは違い大雑把で曖昧な説明になっていると思います。

というわけで、夫人たちは二人とも出かけていましたし、「クラソートキナ」夫人の女中をしている「アガーフィヤ」という中年女は市場へ買物に行ってしまいましたので、「コーリャ」はしばらくの間、《ちびっ子たち》、つまり心細くとり残されたドクトル夫人の男の子と女の子のお守り役と、留守番を仰せつかったのです。

留守番くらい「コーリャ」はべつにこわくなかったし、おまけに「ペレズヴォン」がついてます。

「ペレズヴォン」は玄関の土間にあるベンチの下に、《身動きせずに》伏せているよう命じられていたため、家じゅうを歩きまわっている「コーリャ」が玄関に出てくるたびに、首を横に降っては、おもねるように尻尾で土間を二度強くたたいてみせるのですが、悲しいことに、自分をよぶ口笛の音はしませんでした。

かわいそうな犬を「コーリャ」が脅すようににらみつけると、犬はまた神妙にひっそりとなりました。

しかし、かりに「コーリャ」を困惑させるものがあるとすれば、それはもっぱら《ちびっ子たち》でした。


「カテリーナ」の身に起った思いがけぬ椿事を、彼はもちろん、この上なく深い軽蔑の目で見ていましたが、父親のいなくなったちびっ子たちのことは、非常にかわいがっていたので、すでに何か子供の本を持って行ってやったくらいでした。