2016年7月2日土曜日

93

現実主義者が信仰を信じたら、奇蹟も現実主義者として認めるはずです。

そして、使徒トマスは、「自分の目で見るまでは信じないと明言したが、いざ見るに及んで、『わが主よ、わが神よ!』と言った。」そうです。

この部分は注釈が付いていて「十二使徒の一人トマスはキリストの復活を信じようとせず、『わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れてみなければ信じない』と言ったが、八日のちにイエスの姿を見て『わが主よ、わが神よ』と言った。ヨハネによる福音書第二十章」ということです。

ヨハネによる福音書からの引用は冒頭にもありましたね。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書。第12章24節)」です。

少し長いですが、使徒トマスを「Wikipedia」で調べてみます。

使徒トマス(Thomas the Apostle, 生年不詳 - 72年12月21日)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。アラム語の原義は「双子」。彼に由来する男性名としても一般的に用いられている。ディディモ (Didymus) は「双子」をギリシャ語に訳したもの。ロシア正教会とその流れを汲む日本ハリストス正教会ではフォマ (Фома)。
福音書の一部写本や外典に「ユダ・ディディモ」とあり、本名ユダのあだ名とも考えられる。「双子」の名がなぜ付いたか、誰と双子なのかは不明。
使徒トマスに関して新約聖書では十二使徒の一人として挙げられるほかは、『ヨハネによる福音書』に以下の記述があるのみである。
『ヨハネによる福音書』では情熱はあるが、イエスの真意を理解せず、少しずれている人物として描かれている。(ヨハネ11:16参照)ヨハネ20:24-29ではイエスが復活したという他の弟子たちの言葉を信じないが、実際にイエスを見て感激し、「私の主、私の神」と言った。またイエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んでその身体を確かめたとも。これを西ヨーロッパでは「疑い深いトマス」と呼ぶ。この故事は後世、仮現説に対し、イエスの身体性を示す箇所としてしばしば参照された。またトマスの言葉はイエスの神性を証するものとして解釈された。そのような解釈では、トマスの言動はイエスが神性・人性の二性をもつことを証ししたと解される。

そして、作者は奇蹟が使徒トマスに信仰をいだかせたのではないと言い切っています。

「彼が信じたのは、もっぱら、信じようとねがったからにすぎない」。

さらに、作者は彼が「自分の目で見るまでは信じない」と述べたそのときから、全面的に信じていたのかもしれないと言っています。


2016年7月1日金曜日

92

それにしても「アリョーシャ」は「全面的に奇蹟を信じてはいた」とはどういうことでしょうか。

また、「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。」とはどういうことでしょうか。

これは、現実主義者は現実にそくして物事を考えるわけですから、目の前で起こった奇蹟をたんに現実と考えるだけということではないでしょうか。

そして、作者は続けます。

「現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。」と。

これも、同じ理由で、つまり、現実主義者の奇蹟はこれも現実ということだけで、それと信仰とは関係がないということではないでしょうか。

次に続きます。

「真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟も信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。」

このあたりは、信仰とか奇蹟とかの話になっているのですが、信仰をもたない者にとっては実感として理解するのはむずかしいですね。

「信仰をもっていなければ」ということは、神の存在を信じなければということですが、神を信じない現実主義者であれば、その段階ですでに信じないという力を自分の中にもっているわけであり、奇蹟が起こったとしてもそれが現実であると理解するより、自己の感情の欠損として、その感情を否定するということでしょうか。

そして、「また、もし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったにすぎぬ事実として認めるにちがいない。現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。」

この現実主義者にとって「奇蹟が信仰から生まれる」というのは、奇蹟も信仰も同じことのように考えると、意味のないことを言っているように思えます。

これは、つまり、理屈ではなく、最初に信仰のあるなしがあるということを言っているのでしょうか、現実主義者である「アリョーシャ」は「全面的に奇蹟を信じてはいた」ということはそういうことなのでしょうか。

結局、作者の言いたいことは、現実主義者だから神を信じないということへの反論なのでしょうか、よくわかりません。


2016年6月30日木曜日

91

この章はほんとうは、「ゾシマ長老」の紹介の章ですが、作者はよほど、「アリョーシャ」の容貌や性格についての説明をここでしたかったのしょう。

それも、◯◯は◯◯であると読者は考えるかもしれないが、そうではなくて実は◯◯なのである、という形式を3度も繰り返しています。

ひとつ目は先に見たように「アリョーシャ」は病的で虚弱な夢想家であると読者は思うかもしれないが、そうではなくて実は、均斉のとれた身体つきの美男子であり・・・です。

そして、ふたつ目です。

「アリョーシャ」の赤い頬は狂信や神秘主義のあかしではないかと考える人もいるかもしれないが、そうではなくて実は、誰にもまして「現実主義者だったような気がする。」と「わたし」は言っています。

ここで出てくる「現実主義者」には、「リアリスト」というルビがふられています。

作中に出てくる「わたし」は彼が「現実主義者だったような気がする。」と過去形を使っているのが気になります。

この小説は13年前を振り返るという形で書かれているので、13年後に「アリョーシャ」の身に何かあり、彼のことを知っている「わたし」が昔を振り返っているのです。

しかし、「第二の小説」は書かれませんでしたので、詳細は不明です。

ここで言う「現実主義者」は、現実にそくして物事を判断する人と、考えていいでしょうか。

彼は修道院に入ってから「全面的に奇蹟を信じてはいた」とのことです。

しかし、「わたし」は「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。」と。


2016年6月29日水曜日

90

五 長老

この章は、「ゾシマ長老」の章ですが、今まで謎だった「アリョーシャ」の容姿の描写からはじまります。

まず、作者は読者に問いかけます。

今まで書かれていた「アリョーシャ」のイメージは、「異常なほど感激しやすい、発育の遅れた病的な性格の、青白い夢想家で、虚弱な痩せこけた人間であると、考える人がいるかもしれない。」と。

いやいや、若いのに、ちゃんと自分の考えを持ち、行動的で、人に優しく、思いやりがある立派な青年のように、思えますので、読者はそんな貧弱な様子なんて考えないのではないでしょうか。

そして、作者もそのように言います。

「むしろ反対にアリョーシャはこのとき、頬が赤く、明るい眼差しをした、健康に燃えんばかりの、体格のよい十九歳だった。」

さらに続けて、彼は美男子であり、中背で均整のとれた身体つきで、栗色の髪、いくらか面長で端正な瓜実顔、間隔の広くあいているダークグレイの目はかがやきを放ち、瞑想的な落ち着いた青年だったと書かれています。

ここまで、折りたたむようにしつこいほど描写されれば、読者の方も手に取るように印象づけられ、やっと、主人公らしくなってきました。


2016年6月28日火曜日

89

「フョードル」は続けます。

彼は自分ような飲んだくれ爺やいかがわしい女たちが出入りするような家にいるよりは修道院の方がいいだろうと言います。

そして、「お前は天使」で何物も手を触れることでできないと思うし、それで修道院行きを許可したし、「お前の分別」は悪魔に食われていないので、「勢いよく燃えて、火が消えて迷いがさめたら、帰ってくるんだな。俺は待っているよ。」と。

ここで「フョードル」は世の父親たちの言うようなことを言い、少し感傷的になっています。

彼は心がねじれてはいましたが涙もろい人間でしたので最後に「お前だけがこの俺を非難しなかった、この世でたった一人の人間だと感じている」と言って、すすり泣きしたのです。

これで、「フョードル」の長い独白は終わりますが、この父親になんの非難もしなかった「アリョーシャ」の存在は神さまというか、何とも言いようがありません。



2016年6月27日月曜日

88

「フョードル」は「アリョーシャ」の発言に驚いたのでしょう。

ある意味自分と同じだと思ったのではないでしょうか。

「お前はどうして、鈎がないってことを知ってるんだ?」

そして、「しばらく坊主のところにいりゃ、そんな台詞は吐かなくなるだろうよ。」

この部分というのは、私には理解しづらいのですが、本当の宗教者というのは、天国や地獄が実在すると考えている人たちで、そこに至らぬ宗教的な人たちがたくさんいて、彼らはそれらをただ「影」として、つまりイメージとして頭の中に持っているだけの人たちということでしょうか。

そうするとかなりハードルが高くなりますが、本当はそれが宗教と非宗教を分ける壁なのでしょうか。

彼は「アリョーシャ」が修道院に入って、宗教に関する「真実を探りあてたら」帰ってきて話してほしいと、「地獄がどんなものかをちゃんと知っていれば、あの世へ行くのも気が楽だろうしな。」と言います。

これは、酔払いの発言とは思えませんね。

行って、覗いて、理解して、教えてくれということでね。

凡人が宗教を理解するには、本を読んだり、坊さんに聞いたりするより、身近な人が宗教の世界に出入りする経験を聞くのがいちばん説得力がありますね。

こういった発言を聞くと「フョードル」自身は「鈎がない」、つまり宗教などないと信じきって、自由気ままに生きている人間ではありますが、ただ身のうちのどこかに一抹の不安を抱えているのだと思います。


2016年6月26日日曜日

87

「鈎がなけりゃ」と「フョードル」の自問的な会話は続きます。

自分のような破廉恥きわまりない人間だって、鈎がなければ、地獄へ引きずっていかれないだろうし、もしそうだとすると「真実はどこにあるんだい?」と。

「だから、ぜひともそれを、その鈎を考えだす必要があるんだよ。俺だけのためにも、特別にな。」

酔払ってはいますが、「フョードル」のするどい宗教批判です。

ここにきて、はじめて「アリョーシャ」がひとこと、まじまじと父を見つめながら静かに言葉をはさみます。

「でも、地獄には鈎なんてありませんよ。」

これから修道院に入ろうという人としては、これも思い切った発言だと思いますが、「フョードル」はさらにその上をいきます。

「そうさ、そうだとも。あるのは鈎の影だけだよな。それは知ってるよ。」と。

そして、「フョードル」は17世紀のフランスの詩人、シャルル・ペローが地獄のことをうたった詩を引用します。

『わたしの眼に映じたのは、ブラシの影で馬車の影を拭いている馭者の影であった』

そもそもシャルル・ペローという人はどんな人でしょうか。

じつは日本でもよく知られている『長靴をはいた猫』や『赤ずきん』や『眠れる森の美女』などの作者なのです。

私はまったく知りませんでしたが、昔話や民間伝承を童話として書いた人だそうです。

それだけではなく、学芸に関して古代人と近代人のいずれが優れているかをあらそった「新旧論争」でも有名なようです。

岩波文庫から「完訳ペロー童話集」が出版されています。