2017年4月11日火曜日

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「イワン」と「アリョーシャ」は老人にやっと追いつき、むりやり広間へ連れもどしました。

「どうして追いかけたりするんです!本当に殺されちまいますよ!」と、「イワン」が腹立たしげに父をどなりつけました。

「ワーネチカ、リョーシェチカ、してみると、あれはここにいるんだ。グルーシェニカはここに来たんだ。走りすぎたのを自分で見たと言っているんだから・・・」

「ワーネチカ」は「イワン」、「リョーシェチカ」は「アリョーシャ」の愛称です。

彼は息をあえがせていた。今日「グルーシェニカ」がくることなぞ期待していなかったので、彼女がここにいるよという報が突然、いっぺんに分別を失わせたのでした。

彼は全身をふるわせ、まるで錯乱したかのようでした。

現代ではこのように自分の感情を素直にあらわすこと自体、小さな子供は別ならともかく、想像もつかないことです。

今は、心の中ではそう思っても他人の前で、しかもこの場合は子供の前で、それを身体中で表現することは普通なら躊躇すると思います。

そうすれば、無邪気な自分の気持ちを相手に見透かされてしまいます。

おそらく、そんなことよりも感情の高ぶりの方が勝っているのでしょう。

しかし、その感情の高ぶりを抑えることができないというか、その必要がないと思っているのでしょうか。

他者に自分のことを知られることを嫌悪するという感情はいつごろから生じたのでしょう、またそれはどこからくるのでしょう。

現代人は必要以上に自分を隠し、それだけでなく巧妙に演技さえして煙に巻くようなこともあるのですが、いったい自分の中の何を、何から、何のために隠そうとしているのでしょうか、また、そうしなければならない必然性はどこにあるのでしょうか。


この時代のロシアでは、違っていたのでしょうか、そのような直情的な人間も少なからずいたということかもしれませんが、そして「フョードル」もその代表的なひとりなのでしょうか。


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