2018年7月2日月曜日

823

「しかし、どうしてでしょうね」

苛立たしげに検事が苦笑しました。

「すでにけしからぬ方法で、いや、もしお望みなら、恥ずべき手口で着服した三千ルーブルのうち、ご自分の判断で半分だけ取りわけておいたことが、どうしてそんなに恥辱なんです? より重要なのは、あなたが三千ルーブルを着服したことで、それをどう処理したかじゃないでしょうに。ついでにおたずねしますが、なぜそんなふうに処理なさったのです、つまり、半分だけ取りわけるなんて? 何のために、どういう目的でそうなさったのか、ご説明ねがえませんか?」

これはもっとも普通で自然な意見と質問ではないかと思います。

「ああ、みなさん、その目的こそ、重要な点なのです!」

「ミーチャ」は叫びました。

「取りわけたのは、卑劣さからです、つまり打算からなんですよ。なぜって、この場合の打算は卑劣さにほかなりませんからね・・・・しかも、まるひと月もその卑劣さがつづいていたんですよ!」

「わかりませんね」

「あなた方にもおどろきますね。しかし、もうちょっと説明しましょう、もしかすると本当にわかっていただけないかもしれませんから。いいですか、僕の話をよくきいてください。かりに僕が、正直さを見込んで預けられた三千ルーブルを着服して、その金で豪遊し、すっかり使いはたしたあげく、翌朝あの人のところへ行って、『カーチャ、すまない、僕は君のあの三千ルーブルで遊んじまったんだ』と言うとしますよ。そうですか、いいことでしょうかね? とんでもない、よくないことです。恥知らずで、小心で、けだもので、けだものに堕すまで自制できない人間ということになる、そうでしょう。そうでしょうが? しかし、それでも泥棒じゃありませんよね? 本当の泥棒じゃない、そうでしょう! 遊びに使いはしたけれど、盗んだわけじゃありませんからね! ところで今度は第二の、さらに有利な場合です。よくきいてください、でないと僕はまた話がもたつくから。なんだか、めまいがするもんでね。ところで第二の場合です。僕がここで三千のうち千五百だけ、つまり半分だけ使ったとしますよ。翌日あの人のところへ行って、あとの半分を返すんです。『カーチャ、恥知らずの、軽薄な卑劣漢から、この半分を受けとっておくれ。なぜって、半分は遊びに使っちまったし、あとの半分も使ってしまいそうだから。僕に罪を作らせないでおくれ!』この場合はどうです? けだものでも、卑劣漢でも、何でもかまわかいけれど、今度はもう泥棒じゃない。絶対に泥棒じゃありませんよ。だって、もし泥棒なら、きっと残りの半分を返したりせず、着服しちまうでしょうからね。そうすれば彼女はこう思うでしょう。こんなにすぐ半分を持ってくるくらいだから、あとの金、つまり使いこんだ分も持ってくるだろう。一生かかって金を探し、働いて、いずれ金を見つけて返しにくるだろうってね。こういうわけで、卑劣漢ではあっても、泥棒じゃない。どう思おうと勝手ですが、泥棒じゃありませんよ!」

「あなた方にもおどろきますね。」とは、軽率な言い方ですね、普通の人には「ドミートリイ」の気持ちはわかりません、ただ彼が自己中心的なだけです。

「ドミートリイ」の説明は小学生に説明するようにわかりやすいのですが、破綻しているのではないでしょうか、彼は「泥棒」が一番の悪だと認識しています、客観的には彼のしたことは明らかに「泥棒」行為以外なにものでもありません、このことは彼もわかっています、「ドミートリイ」ははっきり言って広義の「泥棒」なのです、社会的にはそれを「泥棒」と言うのです、しかし彼は自分の心の中ではいろいろと理由をつけて「泥棒」ではないと自分を自分で納得させようとしています、つまり自分は「卑劣漢ではあっても、泥棒じゃない」と言っています、この辺が彼独特の考え方です、自分の気持ちの上では「泥棒」じゃないというわけですがこのようなことは社会的には通用しませんね、そこで三千ルーブルの半分を取り分けた問題ですが、これは社会的なことはすべて棚上げして、自分の内心の問題だけになります、しかしこの自分の内心の中に、もう一人の他人つまり「カテリーナ」の意識が入ってきます、全額使い込んだ場合と半分返還した場合との、相手方の気持ちの違いが述べられています、その内容はあくまで推測になるのでどうでもいいのですが、「ドミートリイ」はそこに大きな意味を付け加えるのです、しかし彼の考えは元婚約者の「カテリーナ」ということではなく、彼女も他人として考えようとしていますので、破綻が生じるのだと思います、要するに「ドミートリイ」の言い訳にすぎないと思うのですが、(822)で「けしからぬ行為」と「恥ずべき行為」についての個人と社会の認識の違いが「人間の本質を問う」という文学作品だからこそなしうることのできる究極の問題提起なのではないかと思います」などと書きましたが、今回の場合はそれとは違います、おそらく作者も、弁解じみたわかりにくさをいろいろと「ドミートリイ」に述べさせているのはそのせいでしょう。


要するに、「ドミートリイ」は半分お金を返したら、相手はそんなに怒らないだろうと、いや怒れないだろう、それを見越して半分は使わずに取っておいた、その打算的なところが自分の卑劣さだというのでしょう、たしかにそれはそうでしょう、そしてその卑劣を卑劣とわかった上である意味平然と日常生活を送る自分を肯定的に思う自分に違和感を感じるのでしょう。


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