2019年3月8日金曜日

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このくだりで弁論は、場内のあちこちから起ったさかんな拍手に中断されかけましたが、「フェチュコーウィチ」は、さえぎらずにしまいまで話させてほしいと頼むかのように、両手を振りさえしました。

とたんにみなが静粛になりました。

弁護人はさらに話をつづけました。

「陪審員のみなさん、こういう問題がわれわれの子供たちに、かりにもう青年になって判断力がつきはじめているとしても、われわれの子供たちに無関係でありうるとお考えでしょうか? いいえ、そんなはずはありません、彼らに不可能な節制を求めるのはやめようではありませんか! 父とよぶに値せぬ父親の姿は、特に自分と同年輩の他の子供たちの立派な父親とくらべた場合、思わず青年にやりきれぬ疑問を吹きこむのです。その疑問に対して、彼は紋切り型の返事をされる。『あの人はお前を生んだのだ、お前はあの人の血肉なのだ、だから愛さなければいけない』青年は思わず考えこむでしょう。『だって親父は俺を作りにかかったとき、俺を愛していただろうか』ますますいぶかしく思いながら、青年はたずねるのです。『はたして俺を作ろうと思って作ったんだろうか? その瞬間、ことによると酒で情欲を燃え立たせたかもしれぬその瞬間には、俺のことも、俺に性別も知らなかったくせに。だから、俺に譲り伝えたのは飲酒癖くらいしかありゃしない、それが親父の恩恵のすべてなんだ・・・・親父が俺を作っただけで、そのあとずっと愛してもくれなかったのに、なぜ俺が愛さなけりゃいけないんだろう?』ああ、ことによると、あなた方にはこんな質問はぶしつけな、残酷なものに思えるかもしれません。しかし若い頭脳にむりな節制を求めてはならないのです。『本性を戸口から追いだせば、窓からとびこんでくる』(訳注 カラムジンの評論『二つの性格』の中の二行詩)と言うではありませんか。何より肝心なのは、《金属》や《硫黄》をこわがらず、この問題を、神秘的な概念が説くようにではなく、理性と人類愛が説くように解決することです。それならどう解決すればよいのか? それはこうです。息子をその父親の前に立たせて、理性的にじかにこう質問させるのです。『お父さん、教えてください。どうして僕はお父さんを愛さなければいけないのですか? お父さん、なぜ愛さなければいけないのか、証明してください』そして、もしその父親がちゃんと答え、証明することができるなら、それは神秘的な偏見だけの上にではなく、理性的、自覚的な、厳密に人道的な基礎の上に確立された、正常な真の家庭なのです。反対に、もし父親が証明できない場合には、その家庭はとたんにおしまいです。彼は父親ではなく、息子はそれ以後、自分の父親を赤の他人と、さらには敵とさえ見なす権利と自由を得るのです。陪審員のみなさん、われわれのこの演壇は、真理と健全な確認の学校であらねばなりません!』

いったい、「フェチュコーウィチ」の考え方は正しいのでしょうか、彼は生物学的な父ということだけで父であるのではなく、道徳的な父を求めています、父親とはかくあるべきという昔からの道徳です、一見古い保守的な考え方のように見えるのですがそうではなく、どんな父でも父であるというのではなく、かくあるべき父ならば父であり、そうでなければ現実的には敵でさえあると言っています、この辺がわかりにくいところで、彼はそういう言い方をすることによって、たんに理想的な父であれということを主張しているようにも思えてきます、しかし彼の言いたいのは、父の役割を果たさぬなら親子の縁を切れということで、昔なら薄情だと言われて批判されていただろうことが、子は子で自分を守るために縁を切ることは正当なことだと言うのです、この辺が新しく、これが聴衆に受け入れられているのです、つまり、親子の権力関係が変わったということです。

「カラムジン」とは、「ニコライ・ミハイロヴィチ・カラムジン(1766年12月12日(旧暦:12月1日) - 1826年6月3日(旧暦:5月22日))は、ロシア帝国(現:ロシア)シンビルスク県出身の貴族、小説家、詩人、歴史家、評論家。文章語の改革に尽力した。大著に1816年からカラムジンが亡くなるまで著された全12巻からなる『ロシア国家史』がある。ロシア文学に於ける散文を同国の思想家、貴族であるアレクサンドル・ラジーシチェフと共に開拓した。また、1792年に著されたカラムジンの主著『哀れなリーザ』『貴族の娘ナターリア』はロシアに於ける啓蒙主義、主情主義(センチメンタリズム)を代表する作品である。同国の詩人、作家であるアレクサンドル・プーシキンの伯父ヴァシリー・プーシキン(英語版)と親しかった。また、ロマン主義の詩人であるヴァシーリー・ジュコーフスキーとも親しかった。」とのこと、評論『二つの性格』のことはわかりませんでした。

ここで弁士は抑えきれぬ、ほとんど熱狂的な拍手によって中断されました。

もちろん、拍手したのは法廷全部ではありませんでしたが、それでもやはり法廷の半分は拍手していました。

拍手したのは父親や母親たちでした。

これはどういうことでしょうか、あえて拍手したのが「父親や母親たち」との一文をはさんでいます、それ以外の人とは子供のいない夫婦や若い独身者や年寄りでしょうか。

婦人たちの坐っている上段の方からは、金切り声や叫びがきこえました。

ハンカチを振っている者もいました。

裁判長が必死に鈴を鳴らしはじめました。

見るからに傍聴席のこうした態度に苛立った様子でしたが、先ほど脅したように断固として《退廷》を命ずるだけの勇気はないようでした。

背後の特別席に坐っている高官や、燕尾服に勲章をずらりと飾った老人たちまで、拍手をしたり、弁士にハンカチを振ったりしていたからです。

そのため裁判長は、騒ぎが鎮まったところで、先ほどからの《退廷させる》という厳重な警告をくりかえすだけで満足せねばなりませんでしたし、得意満面で興奮した「フェチュコーウィチ」はふたたび弁論をつづけました。

「陪審員のみなさん、みなさんは今日ここであれほど論じられた、あの恐ろしい一夜をおぼえておられるでしょう。あの夜、息子は塀を乗りこえて父親の家に忍びこみ、ついに、自分をこの世に生んでくれた男と、自分を侮辱した仇敵とまともに向き合ったのです。わたしの力のかぎり主張しつづけますが、彼がこのとき駆けつけたのは金目当てではありません。すでに述べたとおり、強盗容疑はナンセンスであります。それに、殺すために押し入ったわけでもありません、そう、絶対に違います。もしそういう意図を計画的に持っていたとすれば、少なくともせめて凶器くらいは事前に考えておいたはずです。銅の杵は、自分でも何のためかわかぬまま、本能的につかんだのであります。かりに彼が例の合図で父親を欺して、中に入りこんだとしましょう。すでに申したように、わたしは片時もそんな作り話を信じないのですが、まあ、いいでしょう、一瞬だけそう仮定してみます! 陪審員のみなさん、あらゆる神聖なものにかけて誓いますが、もしこれが父親でなく、何の関係もないただの侮辱者であれば、彼は家の中を駆けぬけて、あの女性が屋敷にいないことを確かめると、ライバルに何の危害も加えず、一目散に逃げ去ったことでしょう。ことによると、殴るなり、突きとばすくらいしたかもわかりませんが、それだけですんだはずです。なぜなら、彼はそれどころではありませんでしたし、そんな余裕もなく、彼女の居所を突きとめる必要があったからです。ところが、父親となると、そう、すべては子供のころから憎むべき相手であり、仇敵であり、侮辱者であり、そして今や恐るべきライバルとなった、父親の姿がなせるわざなのです! 憎しみの感情が思わず抑えきれぬ力で彼をとらえ、判断がつかなくなった。すべては一瞬のうちに起ったのです! これは狂気と錯乱による心神喪失であり、自然界のあらゆるものと同様、無意識のうちに抑えきれぬ勢いで自己の永遠の法則に対する復讐を叫ぶ、自然の心神喪失なのです。しかし、殺人者はこの場合も殺したわけではありません-わたしはそう主張し、そう叫びたい。そうです。彼は嫌悪の憤りにかられて、殺すつもりではなく、また殺してしまうことも知らずに、杵を一振りしただけなのです。・・・・」

ここで切ります。


「フェチュコーウィチ」の弁護のわかりにくさは、彼が「ドミートリイ」が父親を殺害していないと主張しながら、仮に殺害したとしても心神喪失だったからだという二枚舌のように聞こえるところです、殺害しなかったことの証拠はないわけですから弁護の決め手はないのですが、殺害したという証拠も否定しているわけですので、疑わしければ罰せずということだけで弁護した方が説得力があるのではないかと思います、彼は、殺害したとは一瞬たりとも思っていないと言っていますが、それは弁護上のことかもしれないと思ってしまいます、殺したか殺してないかの二つに一つなのですから、仮に殺したとしても心神喪失だから無罪というのは理屈は正しいと思いますが、陪審員に与える印象を考えればよくないでしょう。


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