「アリョーシャ」が宗教の道に入った理由は、ほかにもあるかもしれないと作者は言います。
たとえば、幼いころ、母に連れられてこの町の修道院の礼拝式に行ったときに、何か印象づけられるものがあったのかもしれません。
また、癲狂病みの母が幼い彼を抱き上げて聖像の前に差し出したときに見た入日の斜光も作用しているのかもしれません。
このときの彼の記憶のことは前に書かれていましたが、母の祈りと叫び声と入日の斜光という強力なイメージが交錯する狂気のような特別の世界が彼の原体験として残されていたのではないでしょうか。
そして彼は瞑想に耽りがちな人間ですので、もしかすると、この町へやってきたのは「ここにはすべてがあるのか、それとも二ルーブルにしかすぎないのかを確かめるためにだけ」だったのかもしれません。
しかし、運命はそうはさせてくれませんでした。
「そして、修道院であの長老とめぐりあったのだった・・・」と続きます。
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