「フョードル」は、その癇癪もちに、「単刀直入に、それも、世馴れた人間らしいくだけた口調で」次のように言いました。
『署長(イスプラーヴニク)さん、ずばり言って、わたしらのナプラーヴニク(訳注 十九世紀ロシアの作曲家、オペラ指揮者)になっちゃくださいませんか!』
彼は、人を見る目があるだけあって、どういう相手にはどういう態度をとればいいということがわかっていて、その判断に自信もあったのでしょう。
ここでは、気むずかしそうな癇癪もちの警察署長をなごませようとして、くだけた調子で洒落を言っています。
なかなかうまい洒落だと思うのですが、相手は『なんです、そのナプラーヴニクとやらは?』と、この洒落は通じませんでした。
「フョードル」は、すぐに「こいつは失敗したとわかりましたよ。・・・」
さすがに、「フョードル」の反応は早いですね。
自分の失敗をすぐに理解しています。
ところで、「ナプラーヴニク」とはどんな人物か調べました。
「エドゥアルド・フランチェヴィチュ・ナープラヴニーク(またはナプラヴニク、ナプラーヴニクとも) 1839年8月24日 ボヘミア地方ビーシチ - 1916年11月23日)はチェコ人の指揮者・作曲家。サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で永年にわたって首席指揮者を務めたことにより有名。リムスキー=コルサコフやキュイらロシア人作曲家による多くのオペラを初演した。また、チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」は、ナープラヴニークによる改訂稿が一般に使用されている。14歳で孤児となったため、地元の教会でオルガンを演奏して生計を立てるようになる。1854年にプラハのオルガン学校に入学し、教師の温情によって学業を続けることができた。1861年にロシアから招かれ、サンクトペテルブルクでユスポフ大公(悪名高いフェリックス・ユスポフ公とは別人)の私設オーケストラの指揮者の地位を得た。1864年からロシア音楽協会の演奏会に指揮者として登場し、1869年からはミリイ・バラキレフの後任として同音楽協会の常任指揮者(1881年まで)およびマリインスキー劇場の主席指揮者となる。 ロシア・オペラ界における活躍のほかに、チャイコフスキーの弦楽セレナーデの公開初演(1881年)など、器楽曲の指揮にも携わった。自作もオペラや舞台音楽が数多いが、交響曲や管弦楽曲、室内楽曲やピアノ曲もいくつか遺している。1914年に健康を害して、それ以上の活動を続けることができなくなった。」
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