「ゾシマ長老」に自分が神さまに召されたらすぐに修道院を出るのだ、すっかり出てしまうのだよ、と言われた「アリョーシャ」はびくりとふるえました。
この「すっかり出てしまうのだよ」という言葉は徹底していますね。
きっぱりと全面的に関係を持つな、ということですね。
「ゾシマ長老」は続けます。
「どうした?お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世での大きな修業のために、わたしが祝福してあげよう。お前はこれからまだ、たくさんの遍歴を重ねねばならぬ。結婚もせねばならぬだろう、当然。ふたたび戻ってくるまでに、あらゆることに堪えぬかねばなるまい。やることは数多く出てくるだろうしの。しかし、わたしはお前を信頼しておる。だからこそ、送りだすのだ。お前にはキリストがついておる。キリストをお守りするのだ、そうすればお前も守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ–これがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。今日以後、わたしのこの言葉を肝に銘じておくといい。なぜなら、これからもお前と話をすることはあるだろうが、わたしの余命はもはや日数ではなく、時間まで限られているのだからの」
「ゾシマ長老」は、「アリョーシャ」を送り出し、再び戻ってくると言っています。
そして、自分の遺言として「アリョーシャ」に話した言葉。
–「悲しみのうちに幸せを求めよ」–
また、–「働きなさい、倦むことなく働くのだよ。」–
これらの言葉を「肝に銘じておくといい」と。
ここは、これらの言葉自体が強い力を放っていて、私は一言も言葉を添えることができません。
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