「ラキーチン」は「ゾシマ長老」が「ドミートリイ」に跪拝したことを二度も「あの夢」と言って表現しています。
これはどういう意味でしょうか。
現実離れしていて夢のようなということでしょうか、おそらくそうだろうと思いますが、普通日常的には、現実に起こったことをそのように言ったりはしないと思いますが、親しい友人どおしの会話の調子の中で使われただけのことかもしれません。
しかし、「ラキーチン」はこの後の会話で自ら話すように、大胆な予想をしているのですから、この夢というのは、未来を先取りした不吉なものになります。
「アリョーシャ」は、「あの夢」が何を意味しているか自分は知らないよ、「ミーシャ」と言います。
「ミーシャ」というのは、「ラキーチン」のことですが、はじめてここで彼の愛称が使われています。
この小説の中の他の登場人物についても愛称が使われることが多いのですが、愛称を使う時は親しみをこめた時だけにかぎらず、微妙に本名との使い分けがされるときがあって、この辺はどちらかを使うかによって相手に伝えようとする何かが違ってくるのかどうか、またそのような相互理解の了解があるのかどうか、文化の相違かもしれませんがわかりにくいと思うことがあります。
「ラキーチン」は、「あの夢」がどういう意味であるかを長老が「アリョーシャ」には説明するはずがないから、知らないのは当然で、長老の跪拝はいつものこけおどしにすぎない、しかし、あの手品はわざと仕組んだもので、今にこの町や県内一帯の信者たちが『あの夢は何の意味だろう?』と言いだすに違いなく、「僕にいわせると、あの老人、たしかに炯眼だよ。犯罪を嗅ぎつけたものな。君の一家は不吉な匂いがするもの」
「犯罪」と、「ラキーチン」は核心をついてしまいましたね。
そして、「あの夢」を長老が「アリョーシャ」には説明するはずがないというのは、犯罪の当事者の家族なので彼にはそんなことは話せないということです。
「アリョーシャ」は「犯罪って、どんな?」と聞きます。
あきらかに「ラキーチン」は何事か言ってしまいたいという様子でした。
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