「ドミートリイ」は続けます。
「お前だけなんだ、それともう一人《卑しい女》に惚れて、そのために一生を棒にふっちまったよ。だけど、惚れるってことは、愛するって意味じゃないぜ。惚れるのは、憎しみながらでもできることだ。おぼえておくといい!ま、今のところは陽気に話そう!ほら、このテーブルの前に座れよ、俺は横に坐って、お前を眺めながら、すっかり話してきかせるから。お前はずっと黙ってていいから、俺がすっかり話してきかせるよ。なぜって、ついにこの時期が来たのさ。もっとも、俺の判断では本当に小さな声で話す必要がありそうだな、だってここには・・・ここには、まったく思いもかけぬ聞き手が現われかねないものな。何もかもいま説明するよ、続きはいずれってやつだ。いったいどうして俺がこんなにお前に会いたがっていたと思う、こんなに待ちこがれていたと思うね、この何日というものずっと、それに今もさ?(なにしろ俺がここに錨をおろして、もう五日になるんだからな)。その間ずっとだぜ?それはね、お前だけには何もかも話しとこうと思ったからなんだ、そうしなけりゃならないからさ、お前が必要だからなんだ、明日になれば俺は雲の上からとびおりるからなんだ、明日は俺の人生が終って、また新しくはじまるからなんだよ。お前は山の上から奈落にころげおちる気持を味わったことがあるかい、夢にでも見たことがあるかい?ところが俺が今とびおりるのは、夢の中の話じゃないんだ。でも俺はこわくなんぞない、だからお前もこわがらなくていいんだよ。つまり、こわいんだけど、いい気持なんだ。いや、つまり、いい気持というんじゃなく、歓喜なんだな・・・畜生、どうだって同じことだ。強い精神だろうと、弱い精神だろうと、女々しい精神だろうと、何でもいいんだ!自然をたたえようじゃないか。見ろよ、陽射しはあふれ、空はあくまでも清く、木の葉は緑、まるでまだ夏のようだな、午後三時すぎなのに、この静けさ!お前はどこへ行くところだったんだい?」
「ドミートリイ」は「惚れる」と「愛する」の違いを説明していますが、この辺の言葉の使い方は、時代や国ごとにその意味するところが違ってきますので一概には言えませんが、ここでは単純に男女の恋愛のことに限って言えば、「惚れる」というのは好きだという気持ちが嵩じたもので、「愛する」というのは、片思いあるいは、双方からの片思いというかの段階のことだと思います。
いや、「惚れる」にも片思いの場合があると思いますので、両方の違いを説明するのはむずかしいですね。
「ドミートリイ」に言うように「憎しみ」という要素を加えるならば、「愛する」中には「憎しみ」は含まれませんが、「惚れる」の中には「憎しみ」が含まれる場合もあるということは確かですね。
「愛憎」という言葉もありますが、男女の関係のみならず、人の心の中の分析は複雑です。
「ドミートリイ」はコニャックのボトル半分くらいを飲んで、自分では四分の一と言っていますが、酔っているのでしょう、この会話も勢いづいて、少々くどくて、話の核心になかなか至りません。
「だってここには・・・ここには、まったく思いもかけぬ聞き手が現われかねないものな。」と言っているのは、あとでわかるのですが「グルーシェニカ」のことです。
「ドミートリイ」はこんなところで、もう五日も「グルーシェニカ」の来るのを見張っているんです。
そして、「明日になれば俺は雲の上からとびおりる」と言っていますが、もう何事か大変なことが起こるという覚悟はできているのですね。
彼にも何がどうなるかはまだわかっていませんが、どういう結果になってもそれは何か運命的なことであり、「俺の人生が終って、また新しくはじまる」と言っています。
ものすごく感情が高揚し、まさに「歓喜」だと言っていますが、後で「ドミートリイ」が言うようにシラーの『歓喜の歌』が彼の頭の中にあるのでしょう。
しかしここでは会話の内容に状況説明的なことは含まれていても、「ドミートリイ」が「アリョーシャ」にずっと話したかったという肝心な内容はまだ何も話されていません。
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