「あいつが肚の中で考えてることに関して言や、一般的に言って、ロシアの百姓はたたきのめす必要があるな。俺はかねがねそう唱えてきてるんだ。ロシアの百姓は騙りだよ、憐れむにはあたらん。今でもときおり殴るやつがいるのは、いいことだよ。ロシアの大地は白樺のおかげでしっかりしているんだからな。森をなくしちまったら、ロシアの大地は滅びるさ。俺は賢い人間の味方だ。俺たちは利口すぎて百姓を殴るのをやめちまったけど、やつら自身は仲間うちで殴りつづけているよ。結構なことだ。おのれの裁きでさばかれる、とか何とか言ったな(訳注 マタイの福音書第七章)・・・一口に言や、同じ報いがくるってことさ。それにしても、ロシアは低劣だよ。なあ、俺がどんなにロシアを憎んでるか、わかってくれたらな・・・つまり、ロシアってわけじゃなく、こうしたすべての悪徳をさ・・・しかし、たぶんロシアもだろうよ。そはすべて低劣なりだよ。俺が何を好きか、知ってるか?俺が好きなのは諧謔だよ」
ここで、「おのれの裁きでさばかれる、とか何とか言ったな」というのは、(356)の「もしわたしがキリスト教の迫害者の捕虜になって、神の御名を呪うことや、神聖な洗礼を否定することを強要されたとしたら、わたしは自分の分別でそれを決める完全な権利を持っているんですよ、なぜってこの場合どんな罪もないんですからね」とう「スメルジャコフ」の発言でしょう。
「フョードル」のロシアの農民に関する発言は、1861年の農奴解放により、形式上は農民が自由になったことを受けての発言でしょう。
これにより、農民は下からの運動ではなく、上から自由を与えられたことになり、農民の意識は古いままということもあったのでしょう。
マタイによる福音書の第七章は「1なんぢら人を審さばくな、審かれざらん爲ためなり。 2己おのがさばく審判さばきにて己おのれもさばかれ、己おのがはかる量はかりにて己おのれも量らるべし。」とあります。
あるサイトではこの部分は「1節を逐語訳すれば 「あなたたちは裁くな、裁かれないためである」となり、だれに裁かれないためかといえば、神から裁かれないためで、人々からの意味ではありません。ユダヤ人は神のみ名をみだりに口にしない習慣をもっていたので、神の行為を表現するさい、たびたび動詞の受け身の形を用いました。また、あなたがたが人の罪を大目に見れば、神も大目に見て 無罪放免にしてくださる、ということでもないでしょう。むしろ悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる神の寛大さ(5.45参照)に習うようにうながされているのです。」と説明されていました。
これを読んで余計にわからなくなりました。
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