2017年4月1日土曜日

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「お前がそう信じて、誠実に言ってくれてることは、俺も信ずるよ。目つきも話し方も誠実だからな。ところが、イワンは違う。イワンは傲慢だよ・・・とにかく、やはり俺はお前の修道院にけりをつけてやりたいな。ロシアじゅうのああいう神秘主義を一挙に全部ひっとらえて、ばか者どもをすっかり正気づかせるために、閉鎖しちまいたいくらいだ。そうすりゃ金や銀がごっそり造幣局に流れ込むだろうしな!」

「傲慢」とは「思い上がって横柄なこと。人を見下して礼を欠くこと。また,そのさま。不遜。」とのことです。

「フョードル」はここでも人間観察は鋭く、「アリョーシャ」と比べると「イワン」のことをそれほど好きではないようですね。

「でも、何のために閉鎖するんです」と「イワン」が言いました。

「真理が一日も早くかがやくためにさ、それが理由だよ」

「フョードル」の理屈は筋が通っているように思います。

「だって、真理がかがやきはじめたら、お父さんなんぞ、まず最初に財産を没収されて、そのあと・・・閉鎖でしょうね」

「やれやれ!だが、たぶんお前の言うとおりだろうな。ああ、俺も驢馬か」軽く額をたたいて、ふいに「フョードル」が叫びました。「それじゃ、お前の修道院はあのまま残しとくことにしよう、アリョーシカ。で、われわれ聡明な人間は暖かいところに腰を据えて、コニャックでもいただくとするか。あのな、イワン、これはきっと神ご自身がわざとこういうふうに仕組んでくれたにちがいないぜ。イワン、答えてみろ、神はあるのか、ないのか?いや、ちょっと待て。ちゃんと言うんだぞ、まじめに言えよ!どうして、また笑ってるんだ?」

「フョードル」はユーモアとはったりを交えながら、「神はあるのか、ないのか?」などと根源的な質問をしています。

それに対し「イワン」は、「僕が笑ったのは、山を動かすことのできる隠者が二人は存在するというスメルジャコフの信念に対して、さっきお父さん自身、機知に富んだ批評をなさったからですよ」と言います。

「それじゃ、今もそれに似てるっていうのか?」

「ええ、とてもね」

「と、つまり、俺もロシア人で、俺にもロシア的な一面があるってわけか。しかし、哲学者のお前にだってそういう一面は見つけられるんだぞ。なんなら、見つけてやろうか。賭けたっていい、明日にでも見つけてやるさ。とにかく答えてくれ。神はあるのか、ないのか?ただ、まじめにだぞ!俺は今まじめにやりたいんだ」

この「神はあるのか、ないのか?」の質問は、あまりにも根源的すぎて、しらふでまじめに質問できるような内容ではないと思いますが、あえて「フョードル」は「俺は今まじめにやりたいんだ」と言っていますが、そういうふうに言えば言うほど真剣さからかけ離れて行くようにも思います。

しかし、とりあえず直截的に聞いてみたのですね。

「ありませんよ、神はありません」と「イワン」は言いました。

「アリョーシカ、神はあるか?」と「フョードル」は「アリョーシャ」にも聞いてみます。

「神はあります」と「アリョーシャ」は答えますが、これは当然な返答です。

「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」

「不死もありません」

「全然か?」

「全然」

「つまり、まったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな?とにかく何もないってわけはあるまい!」

「フョードル」はそのように思っているのですね。

しかし、「イワン」はきっぱりと言います。

「まったくの無ですよ」

次に「アリョーシャ」です。

「アリョーシカ、不死はあるのか?」

「あります」

「神も不死もか?」

「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」

これは当然の答えですね。




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