「ふむ。どうも、イワンのほうが正しそうだな。まったく考えただけでも、やりきれなくなるよ、どれだけ多くの信仰を人間が捧げ、どれだけ多くの力をむなしくこんな空想に費やしてきたことだろう、しかもそれが何千年もの間だからな!いったいだれが人間をこれほど愚弄しているんだろう?イワン、最後にぎりぎりの返事をきかせてくれ、神はあるのか、ないのか?これが最後だ!」
「いくら最後でも、やはりありませんよ」
「じゃ、だれが人間を愚弄してるんだい、イワン?」
「悪魔でしょう、きっと」と「イワン」がにやりと笑いました。
「じゃ、悪魔はあるんだな?」
「いませんよ、悪魔もいません」
ここで、「イワン」はすぐに悪魔の存在を否定するのに、どうして「悪魔でしょう、きっと」などと言ったのか疑問ですし、「にやりと笑った」のもすこし不気味です。
「残念だな。畜生、そう言われたんじゃ、最初に神なんてものを考えだしたやつを、俺はどうしてやりゃいいんだい!ヤマナラシの木に縛り首にしても、まだもの足りないっていうのに」
「もし神を考えださなかったとしたら、文明も全然なかったでしょうね」
「なかっただろうか?神がなければ、そうなるか?」
「ええ、コニャックもなかったでしょうね。とにかく、コニャックはもう取りさげなけりゃ」
「待て、待て、待ってくれよ、もう一杯だけ。俺はアリョーシャを侮辱しちまったな。怒らんだろうな、アレクセイ?なあ、かわいいアリョーシャ、アリョーシャ坊や!」
「いいえ、怒ってませんよ。お父さんの考えはわかっていますもの。お父さんは頭より心のほうが立派なんです」
ヤマナラシとは、「(山鳴らし)は、ヤナギ科ヤマナラシ属の落葉高木。"山鳴らし"の名は、葉がわずかな風にも揺れて鳴ることから。別名はハコヤナギ(箱柳、白楊)。」とのこと。
「イワン」の言うようにキリスト教がなければ、西欧の文化は今と全く違ったものとなっていたでしょう。
「コニャックもなかったでしょう」というのは、酒の神バッカスを思い浮かべます。
「アリョーシャ」が言う「お父さんは頭より心のほうが立派なんです」はよく言ったものだと思います。
「フョードル」は、ひどいことばかりする印象がありますが、心の奥底では情けのようなものがあります。
「頭より心のほうが立派だと?ほう、おまけにそう言ってくれたのがお前だとはな?イワン、お前アリョーシャを好きか?」
「好きですよ」
「かわいがってやれ」と「フョードル」はひどく酔っていました。
そして、「あのな、アリョーシャ、俺はさっきお前の長老に失礼を働いちまったな。でも、興奮していたんだよ。しかし、あの長老には諧謔があるな、お前どう思う、イワン?」
「たぶんあるでしょうね」
「あるさ、あるとも。あの男にはピュロンめいたところ(訳注 ギリシャの哲学者。懐疑論の祖)があるよ。あれはイエズス教徒だぞ、つまり、ロシアのな。育ちのいい人間にふさわしく、あの長老の心な中には、聖者を装って演技せにゃならんことに対して、ひそかな憤りが煮えくりかえっているんだよ」
ピュロンは、「(紀元前360年頃~紀元前270年頃)は古代ギリシャ、エリス出身の哲学者であり、古代の最初の懐疑論者として知られており、アイネシデモスによって紀元前1世紀に創始されたピュロン主義の起源として知られている。ピュロンの思想は不可知論という一言で言い表すことができる。不可知論とは、事物の本性を知ることができない、という主張である。あらゆる言明に対して、同じ理由付けをもってその逆を主張することができる。そのように考えるならば、知性的に一時停止しなければならない、あるいはティモンの言を借りれば、いかなる断定も異なった断定に比べてより良い、ということはない、と言えるだろう。そしてこの結論は、生全体に対してあてはまる。それゆえピュロンは次のように結論付ける。すなわち、何事も知ることはできない、それゆえ唯一適当である態度は、アタラクシア(苦悩からの解放)である、と。ピュロンはまた、知者は次のように自問しなければならないと言う。第一は、どのような事物が、どのように構成されているのか。次に、どのように我々は事物と関係しているのか。最後に、どのように我々は事物と関係するべきか。ピュロンによれば、事物そのものを知覚することは不可能であって、事物は不可測であり、不確定であり、あれがこれより大きかったり、あれがこれと同一だったりすることはない、とされる。それゆえ、我々の感覚は真実も伝えず、嘘もつかない。それゆえ、我々はなにも知ることがない。我々は、事物が我々にどのように現れてくるか、ということを知るだけなのであり、事物の本性がいかなるものか、ということについては知ることがない。知識を得ることが不可能だということになれば、我々が無知だとか不確実だという点を考慮に入れても、人は無駄な想像をして議論を戦わせていらいらしたり激情を抱いたりすることを避けるだろう。ピュロンによるこの知識が不可能だという主張は、思想史的には不可知論の先駆でありまたその最も強い主張である。倫理学的には、ストア派やエピクロス主義の理想的な心の平安と比較される。重要な点であるが、懐疑論の定める基準によれば、ピュロンは厳密には懐疑論者ではない。そうではなく、彼はむしろ否定的ドグマ主義者であった。世界において事物がいかにあるか、という視点からみるならば彼は「ドグマ主義者」であり、知識を否定するという面から見るならば彼のドグマは「否定的」なのである。ピュロンは紀元前270年頃、懐疑論に束縛されるあまり、不運な死を遂げたと言われている。伝説によれば、彼は目隠しをしながら弟子達に懐疑主義について説明しており、弟子達の、目前に崖があるという注意を懐疑したことにより不意の死を迎えたと言われている。しかしこの伝説もまた疑われている。」とのこと。
「だって、長老は神を信じていますよ」
と、これはだれの発言でしょうか。
「イワン」と話しているのでしょうか、わかりません。
「これっぱかりも信じてないさ。知らなかったのか?長老がみんなに自分の口から言っとるのに。つまり、みんなというわけじゃなく、訪ねてくる聡明な連中にさ。県知事のシュリツには、わたしは信じてはいるが何を信じているのかは自分でもわからないと、率直に言ったほどだ」
この県の新知事がこの町を視察に立ち寄ったときの話でしょうか。
「本当ですか?」
これはだれの発言でしょうか。
「フョードル」は酔ってはいるのでしょうが、長老が神をこれっぱかりも信じていないと、自信ありげに思い切ったことを言ったものです。
長老が神を信じていないなどと言うことはあり得ないと思うのですが、人の心を読むことができる「フョードル」がそう言うのですから何が本当なのかわからなくなってきます。
人の心の奥のずっと奥には名状しがたいどろどろした混沌のようなものが沈殿していて、普段は落ち着いていて澄んでいるように見えるのですが、何らかの理由でいったんこれがかき混ぜられることがあると思いもよらなかった心の正体が目覚めることがあり、このようなことは一般的に誰の心の中もそういう構造になっているものだということを「フョードル」は知っているのかもしれません。
0 件のコメント:
コメントを投稿