2017年8月30日水曜日

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「イワン」の発言の続きです。
「・・・・しかし、鞭では人間だって殴れるんだからな。現に教養あるインテリの紳士と奥さんが、七つになる自分の娘を細枝で鞭打っているんだ(訳注 少し前に世間を騒がせた実業家クロネベルグの事件。『作家の日記』にもくわしく記されている)。この件について俺は詳細なメモを持っているけどね。父親は枝が節瘤だらけなのを喜んで、『このほうが応えるだろう』なんてほざいてから、実の娘を《しごき》にかかる。俺はちゃんと知っているけれど、鞭で打っているうちに、一打ちするごとに性的快感を、文字どおり性的快感をおぼえるくらい興奮してきて、そのあとは一打ちごとにますます快感をつのらせていく手合いがいるものなんだ。そういう手合いは一分殴り、やがて五分殴り、十分殴りして、長く打てば打つほど、ますますひどく、ひんぱんに、効目があるように殴るものだよ。子供は泣き叫び、ついには泣き叫ぶこともできなくなって、『パパ、パパ、パパったら!』とあえぐだけになってしまうんだ。この事件は、あまりにもひどい、恥知らずな出来事がきっかけになって裁判にまでなったんだよ。弁護士が雇われる。ロシアの民衆は昔からもう弁護士のことを『三百代言は金で雇われた良心』なんて、叫んできたものさ。弁護士は依頼人を守るためにわめきたてる。『この事件はきわめて単純な、ごくありふれた家庭内の問題であり、父親が娘にお仕置きをしただけの話であります。それが裁判沙汰になるとはまさに現代の恥辱にほかなりません!』と、やってのけたもんだ。丸めこまれた陪審員たちは別室に退いて、やがて無罪の判決をもたらす。傍聴人は迫害者が無罪になった嬉しさにどよめく。ええ、俺はその場にいなかったのだが、俺なら加害者の名前をたたえるために奨励金を設けろという提案でもぶつけたいところさ!・・・・まったく美わしい光景じゃないか! ところが、子供の話ならもっとすごいのもあるんだ。

「イワン」の話をここで切ります。

「クロネベルグの事件」に作者はこの事件に興味を持ち以下のように書いているそうです。

「問われるべきは、いまは何も理解のいき届かない子供であるこの娘のその心に、後になって、生涯にわたって、その後、彼女が一生豊かになり、<幸せに>なったとしても、何が残るであろうかということである。ご承知のように、家族の神聖を守るべきはずの裁判が家庭を破壊しないであろうか?」
これにくわえてドストエフスキーが憂慮するのは、七歳の<子供の秘密の素行不良>が公衆の前に明らかにされて、「何かの痕跡が生涯通じて残りはしないか。それも心に残るだけではなく、もしや彼女の運命にも影響しはしないかということである」
「家族に対する父親たちの怠惰のもとで、子供たちはもう極端な偶然にまかされるのだ!貧困、父親の心配ごとは幼年時代から、子供たちの心に、暗い情景、時として有毒きわまりない思い出として浮かび上がる」
「人間は肯定的なもの、美しいものの胚子を持たないで、子供時代を出て人生へと出発してはいけない。肯定的なもの、美しいものの胚子を持たせないで、子の世代を旅立たせてはいけない」

訳注にもあるようにこれらは1876~77年の『作家の日記』に書かれているそうですので、いつか読んでみたいと思います。


発言の中に『三百代言は金で雇われた良心』というのがありましたが、「さんびゃくだいげん」と読み、「 代言人の資格がなくて他人の訴訟や談判などを扱った者。もぐりの代言人。また、弁護士をののしっていう語。」とのこと。


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