「イワン」続きです。
「・・・・その連中は刑務所にいる彼に読み書きを教えこみ、聖書を講釈して、悔悟の念を起させにかかり、説き伏せたり、頭ごなしに押しつけたり、しつこく口説いたり、脅したりしたもんで、ついには彼自身も自分の罪を厳粛に自覚するようになったんだよ。彼は洗礼を受け、みずから裁判所にあてて、自分は悪党だったけれど、そんな自分もやっと神さまが目を開いてくださり、恵みを授けてくださったと、手紙を書いたんだ。ジュネーブじゅうのすべてが、慈善の心篤い敬虔なジュネーブ全市がすっかり湧き返る騒ぎさ。育ちのよい上流の人たちがこぞって刑務所に殺到し、リシャールを接吻し、抱擁して、『お前はわたしたちの兄弟だ。お前は神の恵みを授かったのだ!』と絶叫する。当のリシャールはただ感動に泣きくれるばかりさ。『はい、わたしは神の恵みを授かったのです! 以前のわたしは、少年時代、青年時代を通じて、豚の餌に大喜びしていたものですが、今やそんなわたしにも神の恵みが授かったのですから、主に抱かれて死ぬつもりです!』『そう、そうだとも、リシャール、主に抱かれて死ぬがよい。お前は人の血を流したのだから、主に抱かれて死ぬべきなのだ。お前が豚の餌を羨み、豚の餌を盗んだために折檻されたころ(お前のやったことはとても悪いことだよ、なぜなら盗みは許されないのだからね)、お前が主をまったく知らなかったのは、お前の罪でないにせよ、とにかくお前は人の血を流したのだから死ななければいけない』こうしていよいよ最後の日が訪れた。すっかり衰弱しきったリシャールは、泣きながら、のべつ『今日はわたしの最後の日です。わたしは主の御許に参ります』とくかえすことしか知らぬ有様だ。『そうだとも』牧師や、裁判官や、慈善家の婦人たちが叫びたてる。『今日はお前のいちばん幸福な日だ。お前は主の御許に行くのだからね!』この連中がみな、リシャールを運ぶ囚人馬車のあとについて、馬車や徒歩で断頭台めざして進んで行くんだ。そして断頭台に着いた。『死ぬがよい、兄弟よ』みなはリシャールに叫びたてる。『主に抱かれて死ぬがよい。お前にも神の恵みが授かったのだから』こうして、兄弟たちの接吻にうずめつくされたリシャールは断頭台に引きあげられ、ギロチンの上に寝かされ、彼にも神の恵みが授かったという理由で兄弟として、それでも首をはね落とされたというわけだ。いや、これは実に特徴的な話だよ。このパンフレットはロシアの上流社会の、ルーテル派の慈善家たちによってロシア語に訳されて、庶民の啓蒙のために新聞やそのほかの刊行物に添えて無料で配られたものさ。リシャールの一件は、国民的だという点で実に傑作だよ。わが国じゃ、一人の人間がわれわれの兄弟になり、神の恵みを授かったというだけの理由で、首をはねるなんてことは、およそばかばかしいかぎりだけど、しかし、くどいようだが、ロシアにはやはり独自の、これにも劣らぬほどのものがあるんだよ。ロシアじゃ、こっぴどくぶん殴るのが、歴史的、直接的な、いちばん手近な快楽なんだ。ネクラーソフに、百姓が馬の目を、《おとなしい目を》鞭で打ち据えるという詩があるだろ(訳注 『たそがれまで』という詩)。これはだれでも一度は見たことのある光景で、これがロシア的というやつさ。ネクラーソフは重すぎる荷を曳かされた痩せ馬が、荷車ごと泥濘にはまりこんで、ぬけだせずにいる様子を描いているんだ。百姓が鞭で打ち据える。怒り狂って打ち据え、ついには自分が何をしているかもわからずに殴りつづけ、殴る快感に酔って力まかせに数限りなく殴りつづける。『たとえむりな荷でも、曳くんだ。死んでもいいから引っ張れ!』痩せ馬はもがく。百姓はついてに馬の無防備な、泣いているような、《おとなしい目》をねらって殴りはじめる。馬は夢中ですっとび、泥濘からぬけだすと、息もできずに全身をふるわせながら、何か横っ飛びに跳躍するような、不自然なみっともない格好で走りだす-ネクラーソフのこの詩は恐ろしいほどだよ。しかし、これはたかが馬でしかないし、馬なんてものは鞭で打つために神さまが授けてくださったんだ。かつてタタール人はわれわれにこう教えて、記念に鞭をくれたもんさ。
長いのでここで「イワン」の発言をまた切ります。
「ルーテル派」は前にも何度か出てきましたが、「マルティン・ルターによりドイツに始まる、キリスト教の教派または教団。 ルター派(ルターは)とも呼ばれる。 プロテスタントの一つであり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する」です。
「イワン」は「子供の苦悩」を話すと言っていましたが、トルコ人たちの話や「リシャール」の話は、暴力と快感の話のようです。
まず「リシャール」の話ですが、彼に罪は有るか無いかということで言えば、一般的には無いでしょう。
ジュネーブの人たちも「リシャール」の無知は彼の罪ではないことを認めてはいますが、殺人そのものの罪は認めなければならないと言っており、彼が改心したことで兄弟とは認めてはいるもののそれを免罪符にするかのように、死刑を望んでいるのです。
この考えは、おかしいですね。
これは、ジュネーブにおける集団による暴力であり、その根拠は快楽だと言うのでしょう。
ロシアではそんなおかしな話はないと「イワン」は言い、しかし、馬にたいする百姓の暴力を例にロシアでは別の暴力、つまり「殴る」という行為が歴史的、直接的な、いちばん手近な快楽としてあると言っています。
「ネクラーソフ」は「ドミートリイ」も引用していましたね。
ここでは、『たそがれまで』という詩のことが、ネットにその一部が掲載されていましたので紹介します。
「黄昏まで」 ネクラーソフ 1859年作
人間の無慈悲な手のもと、
息はたえだえ、無惨にやせこけて、
かたわの馬があえぎ、あえぐ、
力には及ばぬ荷をひきずって。
ほら、馬はよたよた歩き出したが、止まってしまった。
「どう!」───と馬追いが薪を掴み、
(鞭では足りぬと思えたのだ)───
馬を殴りに、また殴る!
馬は四足を奇妙につっぱり、
体中から湯気を立て、尻餅をつきながら、
ただ深くため息をついて
うらめしげに見やるのみ……(それは不当な仕打ちに屈する時の人の目だ)。
馬追いはまたもや殴る、背を腹を、
そして前回りしては、肩骨を、
泣き腫らしたやさしい目を殴る!
何をしても無駄。やせ馬は動かない……
ここまででは、トルコ人たちによる残虐行為とジュネーブの集団的無意識による間接的暴力とロシアの直接的暴力が描かれています。
すべてが、自分たちの悪に気づいておらず、快楽が根拠になっているということです。
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