「みごとに挙げ足をとったじゃないか。なに、かまわんさ、おもしろいよ。人間が自分の姿かたちに似せて創ったんだとすると、お前の神さまは立派なもんだ。お前は今、何のために俺がこんな話をするのか、きいたけどね。実は俺はある種の事実に関心をもって、集めているんだよ。実を言うと、新聞だの人の話だのから手あたりしだいに、ある種のネタ(二字の上に傍点)を書きぬいて、集めているんんだ。もう立派なコレクションができてきるくらいさ。トルコ人の話はもちろんコレクションに入っているけど、これはみんな外国人の話だからな。国産のネタ(二字の上に傍点)もあるし、トルコ人の話よりすぐれているのさえあるよ。ところで、わが国じゃもっぱら殴打だな。それもたいてい、細い枝か皮鞭だよ。これが国民的なのさ。わが国では釘で耳を打ちつけるなんてこと考えられない。われわれはこれでもやはりヨーロッパ人だからな。しかし、細枝があり皮鞭があるし、これはすでにわれわれ独自のものになっていて、取りあげるわけにゃいかないんだよ。外国ではこの頃は人を殴ることなんぞ全然ないとかって話だな。風習が浄化されたのか、それとも人間が人間を殴るような真似は許さんという法律でもできたのかわからんが、その代りほかの、わが国と同様やはり国民的な、わが国ではとうてありえないくらい国民的なもので埋め合せをつけたからな。もっともわが国でも、特に上流社会における宗教運動のころからこれが広まってはいるようだがね。俺はフランス語から翻訳された、さるすてきなパンフレットを持っているんだ。そのパンフレットは、ごく最近、せいぜい五年前くらいにリシャールという凶悪な殺人犯で、のちに前非を悔いて断頭台にのぼる直前にキリスト教に帰依した、二十三歳だったかの青年をジュネーブで死刑にしたときの話なんだよ。そのリシャールという男はだれかの私生児で、まだ六つくらいのごく幼いころ、両親がスイスの山奥の羊飼いか何かにくれてやり(五字の上に傍点)、羊飼いたちは仕事に使うために育てたんだ。少年は羊飼いたちのところで小さな野獣のように育っていったのだけれど、羊飼いたちは何一つ教えこまなかったばかりか、むしろ反対に七年もの間、雨の日にも寒い日にも、ほとんど着る物も与えず、食事もろくにさせずに、羊の放牧に出していた。しかも、そんな仕打ちをしながら、もちろん羊飼いたちのだれ一人として、考えこみもしなければ反省もせず、あべこべに、それが当然の権利と思っていたんだよ。なにしろリシャールは品物同然にもらったんだから、食わせてやる必要さえ認めなかったというわけだ。当のリシャールの証言だと、その当時の彼は聖書の中の放蕩息子(訳注 ルカによる福音書第十五章)よろしく、売りに出すためにせっせと太らされている豚に与える混合飼料でもいいから食べたくてならなかったのに、それさえ与えられず、豚から盗んだりすると、ひどく殴られたそうだ。彼は少年時代と青年時代の全部をこんなふうにすごし、やがて成長して体力も強くなると、自分から泥棒に出るようになった。この野蛮人はジュネーブでその日その日の仕事で金をせしめては、稼いだ金をすっかり飲んでしまうという悪党暮しをしていたのだが、最後にはある老人を殺して、身ぐるみ剥いでしまった。彼は捕えられ、裁判にかけられて、死刑を言い渡された。向うではセンチメンタルなお情けはかけないからな。ところが、刑務所に入ると彼はとたんに、いろいろな牧師だの、キリスト教団体の会員だの、慈善家の婦人などに取りかこまれたってわけさ。
「イワン」の会話の途中ですがここで区切ります。
彼は、自分興味深い事件を収集しているのですね。
トルコ人たちの残虐な殺人につづいて、凶悪な殺人犯「リシャール」について語られています。
ときどき聞くことがありますが、実際にこんなひどい羊飼いなどいたのでしょうか。
「ルカによる福音書第十五章」は以下のとおりです。
「さて、取税人や罪人(つみびと)たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人(びと)や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人(つみびと)たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬(たとえ)をお話しになった、
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んで自分の肩に乗せ、
家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使(みつかい)たちの前でよろこびがあるであろう」。
また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩(ほうとう)に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻(せっぷん)した。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕(しもべ)たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、
ひとりの僕(しもべ)を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。」
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