2017年8月27日日曜日

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「ついでに、最近モスクワでさるブルガリヤ人からきいた話をしておくがね」

「イワン」は弟の言葉など耳に入らぬかのように、つづけました。

「アリョーシャ」は話している「イワン」の様子が変で錯乱しているようだと言ったのですが、無視したのです。

いくら夢中になっているといえ、話している相手のことが見えなくなっています。

このこと自体すでに異常だというほかないですね。

「ブルガリヤでは、トルコ人やチェルケス人たちがスラブ人の一斉蜂起を恐れて、いたるところで残虐行為を働いているということだ(訳注 ブルガリヤは十四世紀からトルコに征服されていたが、十九世紀に入って祖国解放の機運が高まり、一八七五年に大規模な反乱が起った。これにともないトルコ側の残虐行為も増大した)。つまり、焼き殺したり、斬り殺したり、女子供に暴行したり、捕虜の耳を塀に釘で打ち付けて、朝までそのまま放っておき、朝になってから縛り首にしたりするなど、とうてい想像もできぬくらいだよ。実際、ときによると《野獣のような》人間の残虐なんて表現をすることがあるけど、野獣にとってこれはひどく不公平で、侮辱的な言葉だな。野獣は決して人間みたいに残酷にはなれないし、人間ほど巧妙に、芸術的に残酷なことはできないからね。虎なんざ、せいぜい噛みついて、引き裂くくらいが精いっぱいだ。人間の耳を一晩中釘で打ちつけておくなんてことは、虎には、かりにそれができるとしても、考えつきやしないさ。ところが、そのトルコ人どもは性的快感を味わいながら子供たちまで痛めつけ、妊婦の腹から短剣で赤ん坊をえぐりだすことからはじまって、母親の目の前で赤ん坊を宙に放りあげ、それを銃剣で受けとめるなんて真似までやってのけるんだ。母親の目の前でというのが、いちばんの快感になっているんだよ。ところが、ひどく俺の関心をひいた一つの光景があるのさ。まあ想像してごらん、ふるえおののく母親の手に乳呑児が抱かれ、入ってきたトルコ人たちがそのまわりを取りかこんでいる。やつらは楽しい遊びを思いついたもんだから、赤ん坊をあやし、なんとか笑わせようとして、しきりに笑ってみせる。やっと成功して、赤ん坊が笑い声をたてる。と、そのとたん、一人のトルコ人が赤ん坊の顔から二十センチ足らずの距離でピストルを構えるんだ。赤ん坊は嬉しそうに笑い声をあげ、ピストルをつかもうと小さな手をさしのべる。と、突然、その芸術家がまともに赤ん坊の顔をねらって引金をひき、小さな頭を粉みじんにぶち割ってしまうんだ・・・・芸術的じゃないか、そうだろう? ついでだけど、トルコ人は甘い物が大好きだそうだ」

「兄さん、何のつもりでそんな話をなさるんです?」

「アリョーシャ」はたずねました。

「もし悪魔が存在しないとすれば、つまり、人間が創りだしたのだとしたら、人間は自分の姿かたちに似せて悪魔を創ったんだと思うよ」

「それなら、神だって同じことですよ」

「いや、『ハムレット』の中のポローニアスの台詞じゃないが、お前は言葉を裏の意味にとるのが、おどろくほど上手だな」

「イワン」は笑いだしました。

歴史を全然知らないので、訳注で書かれていた一八七五年のヨーロッパ史を少し調べてみました。

「1875年にオスマン帝国支配下のバルカン半島で、まずボスニア・ヘルツェゴヴィナのスラヴ系民族のキリスト教徒農民がムスリム地主による搾取に反発して農民反乱を起こした。同様の反乱がブルガリアでも起こると、同じスラヴ系のセルビア公国やモンテネグロ公国からキリスト教徒農民支援の声が起こった。クリミア戦争の敗北で南下政策をいったんは断念していたロシアは、パン=スラヴ主義を標榜して南下政策をとってバルカンに進出する好機が再び到来したと考え、1877年4月、アレクサンドル2世はスラヴ系民族キリスト教徒(ギリシア正教)の保護を口実にトルコに宣戦布告した。」
「1875年ボスニア・ヘルツェゴヴィナでギリシア正教徒(おもにスラブ系住民)が反乱をおこし、ブルガリヤにも飛び火。トルコはこれを弾圧にかかる。ロシアはスラブ民族の独立と統一を支援する。パン=スラブ主義。1877年から78年、ロシア=トルコ(露土)戦争。」

「チェルケス人」についても調べました。

「チェルケス人は自らを「アディゲ人」と呼ぶ。これは「海岸近くの山岳民」を表す」
「チェルケシアは、黒海東北沿岸部の小さな独立国だった。ロシア人はチェルケス人に対して何百回も略奪を行い、チェルケス人をオスマン帝国に追いやった。少なくとも60万人が虐殺や飢餓で落命し、何十万人も故郷を追われた。1864年までに、人口の75%が失われ、チェルケス人は近代最初の「祖国を失った民族」になった。」
「15世紀後半、クリミア・タタール人とオスマン帝国の影響を受けて、チェルケス人の一部がイスラム教を受け入れ始める。彼らはマムルークとなり、カイロのマムルーク朝(1250年~1517年)に仕え、スルタンまで上り詰めた者もいた。エジプトでは1950年にナセルが大統領になるまで、アディゲ人がエリート層を成していた。17世紀にはチェルケス人の多くがイスラム教に改宗した。 ペルシアのサファヴィー朝やガージャール朝に多くのチェルケス人が移住し、ハレムの特権を得て「グラム」と呼ばれる上流兵士となったり、様々な仕事に従事した。アッバース2世やスレイマン1世を始め、サファヴィー朝の貴族やエリートの多くがチェルケス人の子孫だった。イランへの移住は20世紀まで続き、多くが現地社会に溶け込んだ一方で、テヘランやタブリーズ、ギーラーン州、マーザンダラーン州ではチェルケス人社会が未だに存在する。1800年~1909年の間に、オスマン帝国にチェルケス人を中心とする約20万人の奴隷が輸出されたと見積もられている。チェルケス美人は側室として需要が有った」
「2014年にソチ五輪が開催されたソチは、かつてチェルケス人の首都だった。 この地域には1860年~1864年のロシア帝国の侵略により虐殺されたチェルケス人の集団墓地が有る。」

そして「スラブ人」です。

「スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。」

ところで、私は自分なりにこの物語は1866年ごろのこととして考えていますが、この訳注にある1875年では年数が合いません。

『カラマーゾフの兄弟』は1879年から連載がはじまり、単行本として出版されたのは1880年です。


はっきりわかりませんが、「イワン」の話は訳注より前の話ではないでしょうか。


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