2017年11月1日水曜日

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「わが師、長老さま」

極度の不安にかられて彼は言いました。

「今のお言葉はあまりにもはっきりいたしません・・・・いったいどんな苦悩が兄を待ち受けているのでしょう?」

「好奇心は起こさぬがよい。昨日わたしには何か恐ろしいものが映じたのだ・・・・まるであの御仁の運命全体を、昨日の眼差しがあらわしているかのようだった。あの御仁はそういう眼差しをしておったよ・・・・だからわたしは心の中で一瞬、あの御仁がおのれのために用意しているものに慄然としたのだ。これまでの生涯でわたしは一、二度、あのような・・・・まるで当人の運命全体をあらわしているような表情をした人に出会ったことがある。そして、悲しいことに、その人たちの運命はそのとおりになった。わたしがあの御仁のところへお前を遣わしたのも、アリョーシャ、弟であるお前の顔が助けになればと思ったからなのだ。しかし、すべては神の御心しだい。何もかもわれわれの運命なのだからの。『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』(訳注 ヨハネによる福音書第十二章)これをよくおぼえておくとよい。アレクセイ、これまでにわたしは幾度となく心の中で、お前をその顔ゆえに祝福してきたものだ、このことを知っておいてほしい」

長老は静かな微笑をうかべて語りつづけました。

まだ、「ゾシマ長老」の話はつづきますが、この『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』は(4)にも出てきていましたが、またここの重要なところで出てくるということは、深い意味のある言葉なのでしょう。

「ヨハネによる福音書」の理解についてはネットにもいろいろ書かれており、この第12章24節は「一粒の麦はそのままとって置かれたならば一粒のままです。しかし、これが蒔かれて地に落ちると、この一粒の麦自体は死ぬが、そこから芽が出て多くの実を結ぶようになるのです」というが直接的な意味で、それがいろいろな解釈を生んでいるようです。


また、「お前をその顔ゆえに祝福してきた」とはどういうことでしょうか。


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