2017年11月2日木曜日

581

「わたしはお前のことをこんなふうに考えているのだよ。お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけることだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえ、お前を愛するようになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。これが何より大切なことだ、お前はそういう人間なのだ。神父諸師」

感動の微笑をうかべながら、長老は客たちに話しかけました。

これは、「ゾシマ長老」が「アリョーシャ」に伝えたかったことですね、「人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ」という言葉は当たり前のようなことですが、人がいつも忘れがちなことであって、深い感慨をもたらす言葉です。

また、それは一般的で普遍的な言葉ですが、この作者の構想して未完成の「第二部」について、よく言われているように、「革命」ということを念頭に読めば、それを暗示しているとも読めます。

そうでなければ、「アリョーシャ」のような人間に対して「大勢の敵を持つことになろうが」などという言葉は出てきようがないと思います。

そして、「ゾシマ長老」は「神父諸師」と語りかけ、話の対象は他の客人に重点を少しだけ移します。


「これまで一度もわたしは、なぜこの青年の顔がわたしの心にそれほどなつかしいものに思われるのかを、当人にさえ話したことはないのです。今はじめてお話ししましょう。実はわたしにとって、この青年の顔は注意の喚起か予言にひとしいものだったのです。わたしがまだ子供だった、人生の暁に、兄がいたのですが、その兄はわたしの目の前で、わずか十七歳の若さで、死んでしまいました。その後、人生の道を歩みすすむにつれて、しだいにわたしは、この兄こそわたしの運命にとって神の指示か天命のようなものだったのだと、確信するようになったのです。なぜなら、もしわたしの人生にこの兄が現われなかったら、この兄がまったく存在しなかったら、おそらくわたしは決して僧位を受けることも、この尊い道に足を踏み入れることもなかったにちがいないと、思うからです。この最初の出現はまだわたしの少年時代のことでしたけれど、もはや老いの坂も終り近くなって、その再現ともいうべきものが目のあたりに現われたのですよ。ふしぎなことに、神父諸師、アレクセイは顔だちはさほど兄に似ているわけではなく、ほんの少し似通っている程度ですが、精神的に兄とあまりにもそっくりなので、わたしは何度もそれこそ、青年だった兄がわたしの人生の終りにあたって、一種の回想と洞察のためにひそかに訪れてくれたのだと思いこんだりしましての、そんな自分やそんな奇妙な夢想にわれながらおどろいたほどなのです。ポルフィーリイ、今の話をきいていたかね」


0 件のコメント:

コメントを投稿