わが友よ、神に楽しさを乞うがよい。
幼な子のように、空の小鳥のように、心を明るく持つことだ。
そうすれば、仕事にはげむ心を他人の罪が乱すこともあるまい。
他人の罪が仕事を邪魔し、その完成を妨げるなどと案ずることはない。
「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい。それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」などと言ってはならない。
子らよ、こんな憂鬱は避けるがよい!
この場合、救いは一つである。
自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者と見なすことだ。
これは修道僧が自分の道に迷わぬように語りかけているのでしょう。
友よ、実際もそのとおりなのであり、誠実にすべての人すべてのものに対する責任者と自己を見なすやいなや、とたんに本当にそのとおりであり、自分がすべての人すべてのものに対して罪ある身であることに気づくであろう。
ところが、自己の怠惰と無力を他人に転嫁すれば、結局はサタンの傲慢さに加担して、神に不平を言うことになるのだ。
サタンの傲慢さに関してわたしはこう思う。
この地上でサタンの傲慢さを理解するのはきわめてむずかしく、そのためいとも容易に誤解して、それに加担し、そのうえさらに何か偉大な立派なことをしているように考えたりしがちである。
それに、人間の本性のもっとも強烈な感情や行動のうちの多くは、われわれがこの地上にいる間は理解しえぬものであるから、それに心をまどわされたり、それが自分の過ちの弁解になると考えたりしてはならない。
なぜなら、永遠の審判者が責任を問うのは、人間が理解しえたことだけであり、理解できなかったことは問わないからである。
そのことはいずれ自分で納得できよう。
「人間が理解しえたことだけ」を「永遠の審判者」が責任を問い、「理解できなかったこと」は責任を問わないとはどういうことなのか、わかりません。
なぜと言うに、そのときになればあらゆることを正しく見きわめられ、もはや抗弁しようとしないはずだからだ。
この地上にいるわれわれは、実際のところ、迷いつづけているにひとしいのだから、もし尊いキリストの姿が眼前になかったなら、われわれはちょうど大洪水の前の人類のように、すっかり迷って、滅びてしまったことであろう。
この地上では多くのものがわれわれから秘め隠されているが、その代りわれわれには、他の世界、天上の至高の世界と生きたつながりを有しているという、神秘的な貴い感情が与えられているし、またわれわれの思考と感情の根はこの世ではなく、他の世界に存するのである。
事物の本質はこの地上では理解できないと哲学者が言うのは、このためにほかならない。
神は他の世界から種子をとって、この地上に播き、自分の園を作られた。
だからこそ、生じうるものはすべて生じたのである。
だが、その育てられたものは、もっぱら神秘的な他の世界と接触しているという感情によって生き、溌剌としているのであって、もしその感情が弱まったり消えたりすれば、自己の内部に育てられたものも死んでしまうのだ。
そうなれば、人は人生に無関心になり、それを憎むようにさえなるのである。
わたしはそう考える。
ここで区切りなので切ります。
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