(H)人は同胞の審判者にたりうるか? 最後まで信ずること
人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。
なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。
ここで「人を裁く」というのは広い意味で捉えてもいいと思いました。
「人を裁く」者の心得としてこれは正論だと思います。
それを理解したうえでなら、審判者にもなりえよう。
一見いかに不条理であろうと、これは真実である。
なぜなら、もし自分が正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ。
目の前に立って、お前の心証で裁かれる者の罪をわが身に引き受けることができるなら、ただちにそれを引き受け、彼の代りに自分が苦しみ、罪人は咎めずに放してやるがよい。
罪人を放ち、その罪を自分に課すということ、これはたいへんむずかしいことと思います。
たとえ法がお前を審判者に定めたとしても、自分にできるかぎり、この精神で行うことだ。
なぜなら、罪人は立ち去ったのち、みずからお前の裁きよりもずっときびくし自分を裁くにちがいないからである。
かりに罪人がお前の接吻にまったく冷淡で、せせら笑いながら立ち去ったとしても、それに心をまどわされてはいけない。
これは取りも直さず、まだその罪人の時が訪れないからであり、やがていずれ訪れるだろう。
たとえ訪れなくとも、しょせん同じことだ。
彼でなければ、他の者が彼の代りにさとり、苦しみ、裁き、みずから自分を責めて、真理は充たされるだろう。
このことを信ずるがよい。
疑いなく信ずることだ。
なるほど、いいことを言っていますね。
なぜなら、聖者のいっさいの期待と信頼はまさにその一事にかかっているからである。
倦むことなく実行するがよい。
夜、眠りに入ろうとして、『やるべきことを果していなかった』と思いだしたなら、すぐに起きて実行せよ。
もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。
なぜなら実際のところ、お前の言葉をきこうとしないのは、お前にも罪があるからである。
相手がすっかり怒って話ができぬ場合でも、決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕えるがよい。
もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。
そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。
たとえこの地上のあらゆる人が邪道に落ち、信仰を持つにびがお前だけになるといった事態が生じても、最後まで信ずるがよい。
そのときでも、ただ一人残ったお前が、犠牲を捧げ、神をたたえるのだ。
かりにそのような者が二人会えば、それが全世界であり、生ある愛の世界なのだから、感動して抱擁し合い、主をたたえるがよい。
たとえそれが二人でも、主の真理は充たされたからだ。
ここで切ります。
ここまでくれば、まったくの信の世界に入り込んでいますので私はわからないと思います。
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