もし自分が罪を犯し、おのれの罪業や、ふと思いがけず犯した罪のことで死ぬまで悲しむようであれば、他の人のために喜ぶがよい。
正しい人のために喜び、たとえお前が罪を犯したにせよ、その人が代りに行いを正しくし、罪を犯さずにいてくれたことを喜ぶがよい。
ここもわからないのですが、行いが正しく、罪を犯さない「他の人」とは誰のことでしょうか。
やはり、キリストのことでしょうか。
もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったなら、何よりもその感情を恐れるがよい。
そのときは、他人のその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。
苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪のあることがわかるだろう。
なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ。
光を与えてさえいれば、他の人々にもその光で道を照らしてやれたはずだし、悪行をした者もお前の光の下でなら、悪行を働かずにすんだかもしれない。
また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。
かりに今救われぬとしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。
あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。
なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。
行い正しき人が世を去っても、光はあとに残るのである。
人々が救われるのは、常に救い主の死後である。
人類は預言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。
お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。
決して褒美を求めてはならない。
なぜなら、それでなくてさえお前にはこの地上ですでに褒美が与えられているからだ。
行い正しき人のみが獲得しうる、精神的な喜びがそれである。
地位高き者をも、力強き者をも恐れてはならぬ、だが賢明で、常に心美しくあらねばならぬ。
節度を知り、時期を知ること、それを学ぶがよい。
孤独におかれたならば、祈ることだ。
大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。
大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい、あらゆる人を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。
喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。
その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。
なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にではなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。
「選ばれた者」という言葉が出て来ましたが、キリスト教とは「選ばれた者」という意識なのですね。
もともと選ばれなかった者との意識上の違いがすでにここにあるのです。
ここで区切りなので切ります。
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