2017年12月21日木曜日

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(I)地獄と地獄の火について。神秘的な考察

神父諸師よ、『地獄とは何か?』とわたしは考え、『もはや二度と愛することができぬという苦しみ』であると判断する。

かつて、時間によっても空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的存在が、地上へ出現したことによって『われ存す、ゆえに愛す』と自分自身に言う能力を与えられた。

そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。

地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた。

それなのに、どうだろう、この幸福な存在は限りなく貴いその贈り物をしりぞけ、ありがたいとも思わず、好きにもならずに、嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった。

このような者でも、すでにこの地上から去ってしまえば金持とラザロの寓話(訳注 ルカによる福音書第十六章)に示されているように、アブラハムの懐も拝めるし、アブラハムと話もする。

『ルカによる福音書』の第十六章の後半部分です。

「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

これを読んでも、一部分ですのでわかりにくいです。

「ゾシマ長老」の話は、聖書に関する一般的な知識がなければわかりませんね。

天国も観察し、主の御許にのぼることもできる。

しかし、愛したことのない自分が主の御許にのぼり、愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接触するという、まさにそのことで彼は苦しむのである。

なぜなら、このときには開眼して、もはや自分自身にこう言えるからだ。

『今こそ思い知った。たとえ愛そうと望んでも、もはやわたしの愛には功績もないし、犠牲もないだろう。地上の生活が終ったからだ。地上にいたときにはばかにしていた、精神的な愛を渇望する炎が、今この胸に燃えさかっているというのに、たとえ一滴の生ある水によってでも(つまり、かつての実行的な地上生活の贈り物によってでも)、それを消しとめるためにアブラハムは来てはくれない。もはや生活はないのだし、時間も二度と訪れないだろう! 他人のために自分の生命を喜んで捧げたいところなのに、もはやそれもできないのだ。なぜなら、愛の犠牲に捧げることのできたあの生活は、すでに過ぎ去ってしまい、今やあの生活とこの暮しの間には深淵が横たわっているからだ』

地獄の物質的な火を云々する人がいるがわたしはその神秘を究めるつもりもないし、また恐ろしくもある。


ここで切ります。


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