しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶことだろう。
なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。
それに、この精神的苦痛というやつは取り除くこともできない。
なぜなら、この苦痛は外的なものではなく、内部に存するからである。
また、かりに取り除くことができたとしても、そのためにいっそう不幸になると思う。
なぜなら、たとえ天国にいる行い正しい人々が、彼らの苦しみを見て、赦してくれ、限りない愛情によって招いてくれたとしても、ほかならぬそのことで彼らの苦しみはいっそう増すにちがいないからだ。
なぜなら、それに報いうる実行的な、感謝の愛を渇望する炎が彼らの胸にかきたてられても、その愛はもはや不可能だからである。
それにしても、臆病な心でわたしは思うのだが、不可能であるというこの自覚こそ、最後には、苦痛の軽減に役立つはずである。
なぜなら、返すことはできぬと知りながら、正しい人の愛を受け入れてこそ、その従順さと謙虚な行為の内に、地上にいたときには軽蔑していたあの実行的な愛の面影ともいうべきものや、それに似た行為らしきものを、ついに見いだすはずだからである・・・・諸兄よ、わたしはこれを明確に言えないのが残念だ。
だが、地上でわれとわが身を滅ぼした者は嘆かわしい。
自殺者は嘆かわしい!
これ以上に不幸な者はもはやありえないと思う。
彼らのことを神に祈るのは罪悪であると人は言うし、教会も表向きは彼らをしりぞけているかのようであるが、わたしは心ひそかに、彼らのために祈ることも差支えあるまいと思っている。
愛に対してキリストもまさか怒りはせぬだろう。
このような人々のことを、わたしは一生を通じて心ひそかに祈ってきた。
神父諸師よ、わたしはそれを告白する、そして今でも毎日祈っているのだ。
ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明確に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。
サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。
こういう人にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。
なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。
ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。
それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らによびかける神を呪う。
生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。
そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。
しかし、死はえられないだろう。
突然ですが、ここまでで「アレクセイ」が書いた「ゾシマ長老」の手記は終わりです。
今までもそうでしたが、「なぜなら」という言葉がより頻繁に出てきて説明しようとしていますが、わたしにはいまひとつ理解できないです。
まず、精神的な苦痛の方が肉体的な苦痛より大きいと言っています。
そして、それは後戻りできない、取り返しのつかないとこだと言うのですが、「ゾシマ長老」は独自の解釈をして、ちょっと曖昧な表現ですが後からでもそうした方が苦痛は軽減されると言っています。
彼は「臆病な心でわたしは思うのだが」とか「わたしはこれを明確に言えないのが残念だ」とか言って、教義に反するように自分の考えを述べています。
そしてさらに彼は、自殺者やサタンの精神に共鳴した人々のためにも「今でも毎日祈っている」と言っています。
これらはキリスト教からはみ出る行為ではないでしょうか。
おそらくそういうことが「ゾシマ長老」のすばらしいところかもしれません。
この手記も変なところで急に終わっていますが「アレクセイ」はこれ以上のことをあえて書かなかったのかもしれませんね。
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