もう二度と舞い戻ってこないだろう。
彼女は恥じているし、彼女の目を見れば、今やもう彼にも、彼女がだれを愛しているか、はっきりわかる。
そう、今は生きていられさえすればいい・・・・それなのに、生きてゆくわけにはいかないのだ、できないのだ、ああ、なんという呪わしいことだろう!
『神さま、塀のわきに倒れた老人を生き返らせてください! この恐ろしい運命の杯を、素通りさせてください! 神さま、あなたはわたしのような罪びとたちのためにも、数々の奇蹟をしてくださったではありませんか! でも、もし老人が生きていたらどうする、どうしよう? そう、そのときはほかの恥辱をすっかり消すのだ。盗んだ金を返そう、たとえ地の底からでも見つけだして、返すんだ・・・・恥辱の痕は、わたしの心に永久に刻みつけられる以外、何一つ残らないだろう! でも、だめだ、だめだ、ああ、とうていありえぬ小心な夢にすぎない! ああ、いまいましい!』
遡りまして(713)から(714)にかけての部分「「ミーチャ」はすでにわれを忘れ、突然ポケットから銅の杵をつかみだしました・・・・・・・・・・・・・・・」あのときは神さまが僕を守ってくださったんです、と後日「ミーチャ」はみずから語りました。まさにちょうどそのとき、病気の「グリゴーリイ」が寝床で目をさましたのです。」と書かれていますが、ポケットから銅の杵をつかみだした「ドミートリイ」がその時、どうしたのかは「・・・・・・・・」となっていて具体的なことはわかりません、しかし、「神さまが僕を守ってくださった」と後で言っているということは、彼は「フョードル」に銅の杵を振り下ろしてはいないということでしょう、しかし、「盗んだ金を返そう」と言っていますので、三千ルーブルは盗んだのです、つまり彼は、「フョードル」の三千ルーブルをどういう具合でかわかりませんが盗んで、それを見つけて後を追いかけてきた「グリゴーリイ」の頭を銅の杵で殴ったということです。
だが、それでもなお、何か明るい希望の光明が、闇の中でひらめいたかのようでした。
彼はやにわにその場を離れ、部屋へ帰ろうと走りだしました-彼女のもとへ、また彼女のところへ、永遠に彼の女王のところへ行こう!
『そうだとも、たとえ恥辱の苦しみにつかっていようと、彼女の愛の一時間は、この一瞬は、残りの全人生に値するのではないか?』
こんな奇妙な疑問が心をとらえました。
『彼女のところへ行こう、彼女のところしかないのだ。彼女の姿を見、声をきき、何も考えず、すべてを忘れることだ。せめて今夜だけでも、せめて一時間、一瞬だけでもいい!』
これは切羽詰まった時の人間の心理状態の描写ですが、説得力があります。
まだ回廊を出きらぬうちに、入口のすぐ前で、彼は主人の「トリフォン」と出くわしました。
「トリフォン」はなんとなく暗い、気がかりそうな様子に見えましたし、どうやら彼を探しに来たらしいのです。
「どうした、トリフォン、俺を探してたんじゃないのか?」
「いいえ、旦那じゃございません」
ふいに主人はうろたえたみたいでした。
「どうして旦那をお探ししなけりゃなりませんので? ところで旦那は・・・・どこにいらしたんで?」
「どうした、いやに沈んでるな? 怒ってるんじゃないのか? まあ待ってくれ、もうじき寝られるから・・・・今、何時だ?」
「もう三時になりまさあ、ことによると三時をまわったかもしれませんよ」
「もう寝るよ、終りにするさ」
「とんでもない、かまいませんよ。何時まででもどうぞ・・・・」
『どうしたんだろう、この男?』
なんだかわかりませんが、この辺で物語の方向に暗雲がさしてきたように思います。
「ミーチャ」はちらと思って、娘たちの踊っている部屋へ駆けこみました。
しかし、彼女はそこにいませんでした。
青い部屋にも姿はなく、「カルガーノフ」がソファでうたたねしているだけでした。
「ミーチャ」はカーテンの奥をのぞいてみました。
彼女はそこにいました。
片隅のトランクに腰かけ、すぐわきに置いてあるベッドに両手と頭を投げて突っ伏し、人にきかれぬよう必死にこらえて声を殺しながら、悲しげに泣いていました。
「ミーチャ」の姿を見ると、手招きし、彼が駆けよるなり、強くその手を握りました。
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