「僕の話では、みなさん、僕の話ではこうなるんです」
低い声で彼は話しだしました。
「だれの涙のおかげか、僕の母が神に祈ってくれたのか、あの瞬間僕に聖霊が接吻してくれたのか、わかりませんが、とにかく悪魔は敗れたのです。僕は窓のそばからとびのいて、塀の方へ逃げだしました・・・・親父はびっくりして、そのときはじめて僕の顔を見分けると、悲鳴をあげて、窓のそばからとびすさりましたっけ。そのことを僕はとてもよくおぼえています。僕は庭を突っ切って塀に向った・・・・そこで、僕がもう塀にまたがったときに、グリゴーリイが追いついたんです・・・・」
(713)で、「ドミートリイ」は「フョードル」を顔を見て「その個人的な嫌悪がもはや堪えられぬまでにつのり」、彼は「すでにわれを忘れ、突然ポケットから銅の杵をつかみだしました・・・・・・・・・・・」となっていて肝心なところは書かれていませんでした、そしてその続きはこの尋問の発言に続くわけです、銅の杵をつかみだしたときに「悪魔は敗れ」、彼は「窓のそばからとびのいて、塀の方へ逃げだし」たのです、このときに「フョードル」は「ドミートリイ」を見たのですね、そして「窓のそばからとびすさ」っています、「ドミートリイ」が犯人ではないとすると、そのあと、誰かが部屋に入ってきて「フョードル」を殺したことになります。
「ドミートリイ」の話をもう一度整理しますと、「ドミートリイ」は窓から首を突きだした父の姿を見て、憎悪に煮えくり返り、ポケットから杵をつかみだした、その瞬間「悪魔は敗れ」、「ドミートリイ」は窓のそばからとびのいて、庭を突っ切って塀の方へ逃げだしました、一方「フョードル」は「ドミートリイ」の顔を見分けると、悲鳴をあげて、窓のそばからとびすさりました、つまり「フョードル」は部屋の中に引っ込んだということですね、それから殺害されるのですが、それは書かれていません。塀に向った「ドミートリイ」は塀にまたがったときに、「グリゴーリイ」が追いつきました、「グリゴーリイ」は夜中に目をさまし、服を着ました、腰と右足の痛みは堪えきれぬほどで歩くのが思うにまかせぬほどで、表階段の上から様子を見るだけのつもりでしたが、ふと庭へ入る木戸が夕方からずっと錠をかけていなかったことを思いだしました、表階段をおり、庭に向かった瞬間、突然、彼の真正面の庭に何やら異様なものがちらつき四十歩ほど向うの闇の中を何者かが走りすぎたような感じで、なにやら影が非常な早さで動いているのを見つけました、「グリゴーリイ」は「おのれ!」と叫び、逃げてゆく男の行手をさえぎろうと突っ走りました、相手は蒸風呂の小屋に向い、小屋の裏に走りこんで、石塀にとびつきました、相手はもう塀を乗りこえようとしているところでしたので「グリゴーリイ」は夢中で叫びたて、とびあがって、相手の足に両手でしがみつきました、そうすると「ドミートリイ」は銅の杵で「グリゴーリイ」の頭を叩き、彼はその杵を「グリゴーリイ」から二歩ばかり離れたところに「機械的に」投げ捨てました、「ドミートリイ」は「ホフラコワ夫人」をたずねるときに用意した新しい純白のハンカチをポケットから出し、額や顔の血を拭こうと無意味な努力を重ねながら、「グリゴーリイ」の頭に押しあてました。
ここで彼はやっと聞き手に目をあげました。
相手はいたって冷静な注意を払って、彼を見つめているような気がしました。
なにやら憤りの痙攣が「ミーチャ」の心を走りぬけました。
「あなた方は今この瞬間、僕を嘲笑っていますね!」
突然彼は話を中断しました。
「どうしてそんな推測をなさるんです?」
「ネリュードフ」がたしなめました。
「僕の言葉なんぞ一言も信用していないじゃありませんか、だからですよ! そりゃ僕だってわかります。いちばん肝心な点にさしかかったんですからね。今や老人は頭を打ち割られて倒れているというのに、僕は、殺したいと思ったことや、もう杵を取りだしたことを悲劇的に語ってきたあげく、ふいに窓のそばから逃げだしたなんて・・・・まさに叙事詩だ! 詩ですものね! こんな若僧の言葉なんぞ信用できるもんか! は、は! あなた方も皮肉屋ですね、みなさん!」
こう言うと彼は椅子の上で身体全体の向きを変えたため、椅子はみしみしと音をたてました。
「ところで、あなたはお気づきになりませんでしたか」
「ミーチャ」の興奮には注意も払わぬかのように、ふいに検事が口を開きました。
「窓のわきから逃げだしたとき、離れの向う端にある庭への出口が開いていたかどうか、お気づきになりませんでしたか?」
「いいえ、開いてませんでした」
「開いていなかった?」
「それどころか、ぴったり閉ってましたよ。だいいち、だれがあのドアを開けられるというんです? え、ドアが、ちょっと待ってくださいよ!」
突然はっと気づいたかのように、彼は思わず身ぶるいしかけました。
「まさかあなた方が見たときに、ドアが開いていたわけでは?」
「開いていました」
「ドアを開けたのがあなた方自身でないとすると、開けることのできたのは、いったいだれでしょうね?」
突然「ミーチャ」はひどくいぶかしげな顔をしました。
「ドアは開いたままになっていました。したがってお父上を殺した犯人は、疑いもなくこのドアから入って、犯行を終えたあと、またこの戸口から出たわけです」
そうだとすると、このドタバタの最中か、その少し後かもしれませんが、「ドミートリイ」でも「スメルジャコフ」でもない第三者が入り込んできて、「フョードル」の部屋の中に入り殺害したことになります、「ドミートリイ」が塀を越えて出ていったあとで誰かがドアを開けたことになりますね、それにしてもこのドアは「離れの向う端にある庭への出口」だと言いますが「フョードル」の家のどこにあるどのようなドアなのか想像がつきません、「フョードル」の家の見取り図のようなものがあればいいのですがさっぱりです。
このなんだかイメージのわかないこのドアのことですが、木戸のドアなのでしょうか、「グリゴーリイ」が起き出したときには「庭へ入る木戸が夕方からずっと錠をかけていなかった」ので「木戸は開け放しのまま」でした、そのことは殴り倒された「グリゴーリイ」を探しに「マルファ」が外へ出た時に「庭へ行く木戸が開け放されているのを見きわめ」ています、ところが「ドミートリイ」が塀に向かった時には閉まっていたのです、また、検事たちが見た時は開いていました。
よくわかりませんが、このドアが「開いている」「閉まっている」ということだけで考えると、「ドミートリイ」が「窓のわきから逃げだしたとき」のは「閉まって」いて、起き出してきた「グリゴーリイ」が見た時には「開いていた」のですね、ほぼ同時だと思いますが、実際にはどちらが早いのでしょう、「グリゴーリイ」の記憶では夕方から開けっ放しだったとこのとですので、はじめに「グリゴーリイ」が起き出したときは「開いて」いて、「ドミートリイ」が「グリゴーリイ」の頭を杵で叩き、ハンカチで血を拭っている間に、誰かがドアを開けて侵入しドアを「閉め」て部屋に入り、「フョードル」を殺害したのかもしれません、それからドミートリイ」は塀を乗り越えて外に出ます、そうこうしている間に、「スメルジャコフ」の癲癇の悲鳴で「マルファ」が目を覚まし、「グリゴーリイ」を探しに行ったときに(781)で「彼女はおそるおそる階段をおり、庭へ行く木戸が開け放されているのを見きわめ」ましたと書かれています、ということは、侵入してきた犯人は「ドミートリイ」が出て行ったすぐあとに、ドアを「開けて」外に出て行ったことになります、この辺の微妙な時間関係が私にははっきりわかりませんが、作者の中にはしっかりと構築されているんですね。
一語一語を区切るように、検事は明晰な口調でゆっくり言いました。
「これは実にはっきりしているのです。明らかに殺人は窓ごしにではなく(八字の上に傍点)、部屋の中で行われたので、このことは現場検証の調書や、死体の状況、その他あらゆる点からみて明らかです。この点に関してはいささかの疑念もありえません。
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