2018年10月19日金曜日

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「自分の持物を忘れないようにしないと」

もっぱら何か言わねばならぬ必要から、彼はつぶやきました。

「他人の持物も忘れていくなよ!」

「ミーチャ」が皮肉を言い、すぐさま自分の皮肉に大笑いしました。

「ラキーチン」がとたんにかっとなりました。

「そんな言葉は、このラキーチンにじゃなく、農奴制支持派の子孫であるカラマーゾフ一家に言うんだね!」

突然、憎しみに身体をふるわせて、彼はどなりました。

「どうしたい? 冗談を言っただけなのに!」

「ミーチャ」は叫びました。

「ふん、畜生! あいつらはみんなああなんだ」

足早に去ってゆく「ラキーチン」を顎でしゃくって示しながら、彼は「アリョーシャ」に話しかけました。

「今までずっと坐って、笑い声をたてて、楽しそうにしてるかと思や、突然いきり立ちやがって! お前にまるきり会釈もしなかっただろ、喧嘩でもしたのか? どうしてこんなに遅くなったんだい? お前を待ってたなんてもんじゃなく、昼飯までずっと待ちこがれてたんだぜ。まあ、かまわんさ! これから埋め合せよう」

「・・・・昼飯までずっと待ちこがれてたんだぜ。」って何でしょうか。

「どうして彼はこんなにちょいちょい来るようになったの? 彼と仲良くなったの?」

「アリョーシャ」も、「ラキーチン」が姿を消した戸口を顎でしゃくりながら、たずねました。

「ラキーチンと仲良くなった、だって? いや、とんでもない。冗談じゃないよ、あんな豚野郎! 俺を・・・・卑劣漢と見なしてやがるんだ。冗談も解さないくせに。これがあいつのいちばんの欠点だよ。決して冗談を解さないんだから。それに、あいつらの心は乾ききってるよ。平板で、乾ききってるんだ。ちょうどあの日この刑務所に俺の馬車が近づいて、刑務所の壁を見たときにそっくりさ。しかし、利口な男さ、頭はいいよ。なあ、アリョーシャ、俺の頭も今やすっかり終りだよ!」

彼はベンチに坐り、隣に「アリョーシャ」を掛けさせました。

「ええ、明日は公判ですね。それじゃ、ほんとにまるきり期待していないんですか、兄さん?」

臆した心で「アリョーシャ」は言いました。

「何のことだい、それは?」

なにか捉えどころのない目で、「ミーチャ」は彼を見ました。

「ああ、公判の話か! ふん、畜生! 今までお前とはいつも下らないことばかり、まさにその公判のことばかり話してきて、いちばん肝心のところは黙っていたからな。そう、明日は公判だ。ただ、俺の頭もすっかり終りだと言ったのは、公判のことじゃないんだよ。頭がどうもなりゃしないけど、頭の中にあったものが消え失せちまったのさ。どうしてそんな批判がましい顔で俺を見るんだ?」

「ドミートリイ」はさっきから「俺の頭も今やすっかり終りだよ」と言っているのは、「ラキーチン」が自分の知らない新しい知識を知っているのに、刑務所の中では知ることもできないという絶望感でしょう、そして彼は「公判のこと」なぞ「下らないこと」だと言っています。

「今言ったのは何のこと、兄さん?」

「思想さ、思想だよ、そうなんだ! エチカ(倫理学)だよ。エチカって、何なんだい?」

「エチカ?」

「エチカ」とは、「『エチカ』(羅: Ethica)とは、1677年にオランダの哲学者スピノザにより発表された倫理学の哲学的研究である。副題も含めた正式名称は、『エチカ - 幾何学的秩序に従って論証された』(羅: Ethica, ordine geometrico demonstrata)である。」とのことです、そして「この著作は、形而上学、心理学、認識論、感情論、倫理学の内容がそれぞれ配列されているが、中心的な主題は倫理である。この著作の特徴は論述形式が全体を通してユークリッドの『原論』の研究方法から影響を受けている点であり、全ての部の冒頭にいくつかの定義と公理が示され、後に定理(命題)とその証明とその帰結が体系的に展開されている。」とのことで、内容は「まずスピノザは万物に原因があり、またそれ以上探求することができない究極的な原因が存在すると考える。この究極的な原因が自己原因(causa sui)と定義されるものであり、これは実体、神、自然と等しいと述べる。神は無限の属性を備えており、自然の万物は神が備える無限の属性の様態の一種である。このような汎神論の観点に基づけば、神こそが万物の内在的な原因であり、そこから神の自由を導き出すことができる。スピノザは人間が本来的に自然であることを否定し、汎神論の元での決定論を主張する。神から派生する無限の属性の中から人間の幸福の認識に寄与する要素を抽出するためには人間の身体と精神について考察することが必要であり、スピノザは感覚的経験に基づいた認識の非妥当性を指摘する。そうした万物が有限の時間の中に存在し、外部の力によってしか破壊されない自己を存続させる力『コナトゥス』の原理に支配されているとし、人間の感情もこのコナトゥスによって説明した。また人間の感情とは欲望、喜び、悲しみの三種類から構成されており、例えば外部の原因の観念を伴う喜びが愛であり、外部の原因の観念を伴う悲しみが悩みであると理解する。この感情を制御することができない無力こそが人間の屈従の原因であり、理性の指導に従うことで自由人となることができると論じる。本来的に不自由な人間が自由を獲得するためには外的な刺激による身体の変化に伴って生じる受動的な感情を克服する必要がある。そのことによって人間は感情に支配される度合いを少なくし、理性により神を認識する直観知を獲得することができる。スピノザは直観知を獲得して自由人となることに道徳的な意義を認め「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」と述べて締めくくっている。」とのことですが、むずかしいですね、また、「田辺元は『エチカ』を「哲学史上最小限の古典」の1冊として挙げ、「スピノザの『エチカ』は幾何学の体裁で書かれているのですが、充分苦しんでスピノザの『エチカ』を自分のものにするということが、哲学に足を踏み入れるとき大きな力になると信じます。」と述べている。下村寅太郎は「『エティカ』は文字通り倫理・宗教の書で、人生いかに生くべきかを問題にする書である。これを感情や情緒にうったえず、感傷をすてて、もっぱら冷徹な理性の思惟による明晰明確な解脱の道を説くものである。今日のいわゆる科学時代にたえる哲学・宗教・倫理の書である。」と評している。」そうです、こうまとめてくれたらなんとなくわかるような気がします。

「アリョーシャ」は面くらいました。

「うん、何かの学問か?」

「ええ、そういう学問はあるけど・・・・ただ、正直に言って、どういう学問なのか説明できないな」

「ラキーチンは知ってるぜ。ラキーチンはいろいろ知ってやがるよ、いまいましい! あいつは坊主になんかならないぜ。ペテルブルグへ行くつもりなんだ。向うへ行ったら、評論の分野で活躍するんだとさ、上品な傾向のな。結構なこった、社会のためになり、しかも立身出世ができるとはな。ふん、あいつらは出世の名人だからな! エチカなんぞ、くそくらえだ! 俺はもうだめだよ、アレクセイ、俺はな。お前は神の使徒さ! 俺はだれよりもお前が好きだよ。お前を見ていると心がふるえてくるよ、そうだとも。カール・ベルナールって、いったい何者だい?」

「カール・ベルナール?」

「アリョーシャ」はまた面くらいました。

「いや、カールじゃない、待てよ、間違えた。クロード・ベルナール(訳注 フランスの生理学者。実験生理学を確立した。霊魂不滅を信ずるドミートリイには、ベルナールの唯物論が容認できなかったのである)だ。これは何だい? 化学か何かか?」

「それはたしか、学者ですよ」

クロード・ベルナール(Claude Bernard, 1813年7月12日 - 1878年2月10日)は、フランスの医師、生理学者。

「クロード・ベルナール」は「内部環境の固定性」と言う考え方を提唱。この考え方は後に米国の生理学者・ウォルター・B・キャノンによって「ホメオスタシス」という概念に発展させられた。また、1862年にルイ・パスツールと共に低温殺菌法の実験を行った。」とのことです。

「アリョーシャ」は答えました。


「ただ、正直なところ、その人に関してもあまり語れませんね。学者だってことだけはきいてるけど、どういう学者なのか知らないから」


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