2019年1月18日金曜日

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五 突然の破局
断っておきますが、彼は「アリョーシャ」より先によびだされるはずだったのであります。

しかし、そのときは廷吏が、証人は急病か何かの発作で今すぐには出廷できませんが、癒りしだいいつでも証言をするつもりでいます、と裁判長に報告しました。

もっとも、どういうわけかそれはだれも耳にしておらず、あとになってから知ったのでした。

なぜでしょうか、証言の順番についてあとからあれこれと話されたのでしょうか。

彼の出廷は最初のうち、ほとんど目立ちませんでした。

重要な証人たち、特にライバル同士の二人の女性は、すでに尋問を終えていました。

好奇心はさしあたり充たされました。

傍聴席には疲労の気配さえ感じられました。

あと何人かの証人の尋問があることになっていましたが、すでに報じられたすべての事実を考えれば、それらの証人もおそらく特別のことは何一つ伝えるはずがありませんでした。

時はどんどんたっていきました。

「イワン」はだれの方も見ようとせず、まるで不機嫌に何かを思いめぐらすかのように、首さえ垂れて、ふしぎなはどゆっくりと近づいてきました。

一分の隙もない服装をしていましたが、その顔は少なくともわたしには病的な印象を与えました。

土気色のその顔には、どこか死に瀕した人のようなものがありました。

目が濁っていました。

彼はその目をあげて、ゆっくりと法廷内を見まわしました。

「アリョーシャ」がふいに席を立とうとしかけ、ああ、と呻き声をあげました。

わたしはそれをおぼえています。

しかし、それさえ気づいた人は少なかったのです。

裁判長は、彼が宣誓を必要とせぬ証人であることや、証言しようと黙秘しようと差支えないが、証言したことはすべて、もちろん良心に従ったものであらねばならぬこと、などから説き起そうとしかけました。

「イワン」はききながら、ぼんやり裁判長を眺めていました。

しかし、突然、ゆっくりと相好をくずして薄笑いをうかべ、びっくりして見つめていた裁判長が話をやめたとたん、彼はだしぬけに声をあげて笑いだしました。

法廷内がふいにしんとなり、何事かを感じとったかのようでした。

裁判長は心配になりました。

「あなたは・・・・もしかすると、まだあまり加減がよくないんじゃありませんか?」

廷吏を目で探しながら、裁判長が言いかけました。

「ご心配なく、裁判長閣下、僕は申し分ないほど健康ですし、興味のある事実を二、三お話しすることができます」

突然まったく平静に、丁寧な口調で「イワン」が答えました。

「何か特別の情報を提供してくださるおつもりなんですか」

なおも信じかねるように、裁判長がつづけました。

「イワン」は目を伏せ、数秒ためらっていましたが、ふたたび顔をあげると、口ごもるように答えました。

「いえ・・・・べつに。何も特別の情報などありません」

尋問がはじまりました。

彼はまったく気のない態度で、ひどく言葉少なく、ますます強まる嫌悪の気持すら露骨に示しながら答えましたが、それでもその答えは一応筋が通っていました。

たいていの質問は、知らないと言ってはぐらかしました。

父親と「ドミートリイ」の貸借勘定なぞ、何一つ知りませんでした。

「それに、興味もありませんでしたしね」と彼は言いました。

父を殺すという脅し文句は、被告からきいていました。

封筒に入れた金をことは、「スメルジャコフ」からききました。

「どれも同じことの蒸し返しですよ」

ふいに彼は疲れた様子で話を打ち切りました。

「僕はこの法廷に何一つ特別の事実をお伝えできません」

「お見受けしたところ、お加減がわるいようですね、それにあなたのお気持もわかりますし・・・・」

裁判長が言いかけました。

裁判長は検事と弁護人の双方に、もし必要があれば質問を出すよう促して、声をかけようとしましたが、このときだしぬけに「イワン」がぐったりした声で頼みました。

「裁判長閣下、もう勘弁してください。ひどく気分がわるいので」

この言葉とともに、彼は許可も待たずに突然、身をひるがえして法廷を出て行こうとしかけました。

しかし、四歩と行かぬうちに、急に何事か思いついたように立ちどまり、低い薄笑いを洩らすと、ふたたび先ほどの席に戻りました。

「閣下、僕はね、あの百姓娘みたいなもんですよ・・・・ご存じでしょう、例の『立ちたきゃ立つけど、いやなら立たねえ』(訳注 ウールのスカートを敷いた上に娘が立つと、結婚を承諾したことになる)ってやつです。サラファンなり、ウールのスカートなりを持って娘のあとを追いかけまわし、娘は『立ちたきゃ立つけど、いやなら立たねえ』と言うだけでね・・・・これはわが国の民族性ですかな・・・・」

「サラファン」とは、「ロシアの女性がルバシカ(ブラウス)の上に着るジャンパースカートに似た民族衣装である。伝統的なものは、現在はもっぱら伝統・民族芸能などの衣装として用いられる。」とのこと、ところで「イワン」は自分を「百姓娘みたいなもんですよ」と言っていますが、これは話したいことだけを話している尋問の様子のことなんでしょうか。

「あなたは何を言いたいんです?」

裁判長がきびしくたずねました。

「ほら」

「イワン」はふいに札束を取りだしました。

「金です・・・・その封筒に入ってた金がこれですよ」

彼は証拠物件ののっているテーブルを顎でしゃくりました。

「この金のために親父は殺されたんです。どこへ置きますか? 廷吏さん、渡してください」


廷吏が札束をそっくり受けとり、裁判長にわたしました。


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