「ドミートリイ」が食堂にとびこんできて、父親を殴り倒し、また出直して殺してやると凄んだ、例の昼食のときの一幕を、「グリゴーリイ」が物語ったあと、法廷内に陰惨な印象が流れました。
ましてこの老僕が、余計な言葉をはさまず、独特の語り口で淡々と話し、その結果ひどく雄弁にきこえただけに、なおさらのことでした。
そのとき「ミーチャ」に自分も殴られ、投げ倒された侮辱に対しては、べつに腹も立てていないし、とうに赦している、と彼は述べました。
死んだ「スメルジャコフ」に関しては、十字を切ってから、才能のあるやつだったが、愚か者で、病気にさいなまれており、そのうえ不信心者だった、彼に不信心を教えこんだのは「フョードル」と長男とだ、と言いました。
「愚か者」とは「頭の回転が鈍い人。また、考え方が足りていないて未熟者である」といった意味もあるとのことですが、ここでは後者ですね、「スメルジャコフ」に不信心を教えこんだのは「フョードル」と長男とだ、と言っていますが、長男よりはむしろ次男の「イワン」ではないでしょうか。
しかし、「スメルジャコフ」の正直さについては、ほとんどむきになって請け合い、その場でさっそく、かつて「スメルジャコフ」が主人の落した金を見つけたとき、それを猫ばばせずに主人に届け、主人はその褒美に《金貨を与え》、それ以後すっかり信用するようになったという話を披露したほどでした。
《金貨》の話は(361)で「お前の今の一言は金貨一枚の値打ちがあるよ。今日にも届けてやる。」と「フョードル」が言ったのですね。
庭へのドアが開いていたことは、頑なばかり執拗に断言しました。
もっとも、彼に対する質問はとても多かったので、全部を思いだすことなど、とうていわたしにはできません。
いよいよ質問が弁護人に移りました。
弁護人は何よりまず、「フョードル」が《さるご婦人》のために三千ルーブルをしまっておいた《とかいう》例の封筒に関して、ききだしにかかりました。
「あなたはそれをご自分で見たのでしょうね、なにしろあなたはあれほど永年ご主人のおそば近くにいらした人ですから?」
「グリゴーリイ」は、自分は見ていないし、それに「このごろになってみんなが言いだすまで、そんなお金の話などだれからもきいたことがない」と答えました。
「フェチュコーウィチ」は、ちょうど検事が領地の配分のことをたずねたときと同じようなしつこさで、封筒に関するこの質問を、証人のうちたずねうる人すべてに発していましたが、やはりその人たちすべてから得たのは、きわめて多くの人が話にこそきいていたが、だれ一人として封筒は見ていない、という返事だけでした。
この質問に対する弁護人の執拗さには、いちばん最初からだれもが気づきました。
「それでは、もしお差支えなければ、質問させていただきたいのですが」
突然、まったく唐突に「フェチュコーウィチ」がだずねました。
「予審で明らかなように、あなたはあの晩、寝る前に、腰の痛みを癒そうと思って、バルサムというか、いわば薬酒を腰に塗ったそうですが、その薬酒の成分はどういうものですか?」
「バルサム」とは「樹木から天然に,あるいは樹皮に傷をつけて分泌された粘稠性の樹脂。天然樹脂 (レジン) がオイルエステル (精油) の中で溶液またはエマルジョン (乳濁液) になっているもの。普通,生木からとれる半液体状の分泌物をさすが,固体のものも含む。一般に水に不溶,アルコールにほとんど溶解する。接着剤,塗料,テレビン油に利用されるほか,一部の芳香性樹脂は香料,香気保留剤として使われる。中央アメリカに産するペルーバルサム,南アメリカ北部に産するトルーバルサムが有用である。」とのことです。
「グリゴーリイ」は愚鈍そうに尋問者を眺め、しばらく沈黙していたあと、つぶやきました。
「サルビヤの葉を入れました」
「サルビヤだけですか? ほかに何か思いだせませんか?」
「オオバコも入っていました」
「それに、おそらく胡椒もね?」
「フェチュコーウィチ」が興味ありげにたずねました。
「胡椒も入れました」
「その他いろいろですね。それを全部ウォトカに漬けたんですね?」
「アルコールです」
法廷にかすかな笑声が流れました。
「ウォトカ」のアルコール度数は40%強だと思いますが、ここで使った「アルコール」はたぶん100%のものでしょう。
「ほう、アルコールでしたか。背中に塗ったあと、あなたは壜に残った分を、奥さんしか知らぬありがたいお呪いといっしょに飲み干した、そうですね?」
「飲みました」
「飲んだのはおよそどれくらいの量でしたか? 大体の見当で? グラスに一杯か二杯ですか?」
「コップで一杯くらいです」
「コップ一杯もね。ひょっとすると、コップ一杯半くらいあったかもしれませんね?」
この話は(562)で「スメルジャコフ」が「イワン」に「その治療というのがひどくおもしろいものでございましてね。マルファがそういう薬酒を知っていて、いつも備えているんですよ。何とかいう草を浸した強い酒ですが、あの婆さんはそんな秘伝を心得ているんです。グリゴーリイ爺さんが年に三、四度、まるで中風を起したみたいに腰をぬかすんですが、年に三、四度そういうことがあるとき、この秘伝の薬で治療をいたしますんで。そのときにはまずタオルをとって、この薬酒に浸し、マルファが爺さんの背中全体を三十分くらい、すっかり乾くまでこすりましてね。しまいには背中が真っ赤になって腫れあがりますよ。それから壜に残ってるのを、何やらお呪(まじな)いといっしょに爺さんに飲ませるんです。といっても全部じゃありませんがね。なぜって、めったにない機会ですから自分にも少し取り分けて、お相伴しますからね。そうすると、二人とも下戸の口ですから、飲むなりぶっ倒れて、そりゃ永いことぐっすり眠っちまうんです。」と話しています。
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