「イッポリート」の論告の続きです。
「・・・・おそらく彼らは、自己の良心と差向いになったとき、ひそかに自分自身に『それなら、恥を知る心とはいったい何か、流血の罪なぞ偏見ではないのか』と問うていることでしょう。ことによると、わたしに反対の声をあげて、わたしがヒステリックな病的な人間であり、おそろしい中傷をし、うわごとを口走り、誇張している、と言う人がいるかもしれません。それならそれで、結構ではありませんか、本当にそうであれば、わたしは真っ先にどれほどそれを喜ぶことでしょう! ああ、わたしの言葉を信じないで、わたしを病人と見なしてくださってもかまいません、だが、やはりわたしの言葉は肝に銘じておいていただきたいのです。たとえ、十分の一、二十分の一なりと、わたしの言葉に真実が存するなら、それこそ恐ろしいことではありませんか! みなさん、よくごらんください、わが国の青年たちがいかに自殺するかを見てください。ああ、そこには『あの世(三字の上に傍点)には何があるのか?』というハムレット的な疑問など、これっぱかりもないのです。まるで、われわれの霊魂とか、死後われわれを待ち受けているすべてのものとかに関する命題なぞ、彼らの本性の中でとうの昔に抹殺され、葬られて、砂をかけられてしまったかのように、そんな疑問の影さえなく、自殺するのです。最後にわが国の頽廃と、わが国の色情狂たちを見てください。本事件の不幸な犠牲者であるフョードル・カラマーゾフなど、彼らのうちのある者に比べれば、無邪気な赤子にもひとしいのであります。とにかく、われわれはみな彼を知っていましたし、《彼はわれわれの間に生きていた》ではありませんか・・・・そう、おそらくいつの日にか、わが国およびヨーロッパの一流の学者が、ロシア的犯罪の心理を研究することでしょう。なぜなら、このテーマはそれだけの値打ちがあるからです。しかし、この研究が行われるのは、後日いつか、もう暇になってからのことであり、それも現在のあらゆる悲劇的な混乱がずっと遠景に退いたときのことでありましょう。したがって、たとえばわたしのような人間がなしうるよりは、もはやずっと聡明かつ公平に観察できるはずであります。現在われわれは、慄然とするか、あるいは慄然としたふりをして、その実むしろ反対に、われわれの冷笑的(シニカル)で怠惰な無為を揺さぶってくれる強烈な異常な感覚の愛好者として、この見世物を楽しんでいるか、さもなければ、幼い子供のように、この恐ろしい幻影を両手で払いのけ、恐ろしい幻影が消え去るまで枕に顔を埋め、そのあとすぐ愉悦と娯楽の中でそれを忘れ去るつもりでいるか、なのであります。だが、やがていずれは、われわれもまじめに慎重に生活をはじめなければならないのです。われわれも社会としての自己に目を向けねばなりません。われわれとて社会問題にせめて何かの理解を持つか、でなければせめて理解を持とうとしはじめねばならないのです。一時代前の偉大な作家(訳注 ゴーゴリ)は、そのもっとも偉大な作品(訳注 『死せる魂』)の結びで、ロシア全体を未知の目的に向ってひた走る勇ましいトロイカに見立てて、『ああ、トロイカよ、鳥のようなトロイカよ、だれがお前を考えだしたのだ!』と叫び、さらに誇らしげに感激に包まれて、がむしゃらに疾走するこのトロイカの前にすべての民族がうやうやしく道をあけると、付け加えたものです。みなさん、これはこれでかまいません。道をあけるなら、うやうやしくだろうと、どうだろうとかまわないのです。しかし、わたしの大それた考えによれば、かの天才的な芸術家がこのように作品を結んだのは、小児のように無邪気なセンチメンタルな善意の発作にかられたためか、あるいは単に当時の検閲を恐れたからにすぎないと思うのです。なぜなら、ソバケーウィチとか、ノズドリョフ、チチコフといった彼の作品の主人公たちに、この馬車を曳かせたりしようものなら、たとえどんな人物を馭者に仕立てようと、そんな馬ではまともなところに行きつけるはずがないからであります! しかも、これは現代の馬には遠く及びもつかぬ、一昔前の駄馬にすぎませんし、現代の馬はもっと優秀なのです・・・・」
ここで「イッポリート」の弁論は、拍手によって中断されました。
この「イッポリート」の弁論はまだ前置き段階ですが、こんなことは本件にあまり関係がないのではないでしょうか、これは傍聴席にいる語り手が書いたものとして物語が進行しているのですが、どうみてもこれは話し言葉ではなく、文字で書かれた内容だと思います、語り手の記憶力がいくら優れていてもここまで描写するというのも不思議ではあります、「ゴーゴリ」の『死せる魂』からの引用がありますが、この作品は(747)で「カルガーノフ」が「マクシーモフ」のことを話す場面でも出てきました、「・・・・ゴーゴリが『死せる魂』の中で自分のことを書いているなんて、言い張るんですからね。おぼえてらっしゃるでしょう、あの中にマクシーモフという地主が出てきますね。ノズドリョフがたたきのめして、『酔いにまかせて地主マクシーモフに靴で個人的侮辱を加えたかどで』裁判にかけられるでしょうが。おぼえてらっしゃるでしょう? どころが、どうです、この人ときたら、あれは俺のことだ、殴られたはこの俺だ、なんて言い張るんですよ! そんなことがありえますか? チチコフが旅行してたのは、いちばん最後のころでも、二十年代はじめでしょう、だから年代がまるきり合わないんです。そんなころこの人が殴られるはずはないじゃありませんか。ありえない話でしょう? ありえませんよね?」と。
ロシアのトロイカという描写のリベラリズムが、みなの気に入ったのです。
「リベラリズム」とは、いろいろな定義があり、現在でもよく使われている言葉ではありますが、いまひとつイメージがわきません、具体的にどう説明されているかネットで見てみました、「リベラリズム(英語: Liberal international theory or Liberalism in IR)とは、現実主義と並ぶ国際関係論の主要な学派のひとつである。多元主義あるいは理想主義とも呼ばれることがある。国家の能力よりも国家の選好が国家行動の主な決定要因であると主張する。国家を単一主体とみる現実主義と異なって、リベラリズムは国家行為における多元性を許容する。それゆえに選好は国家によって変わり、文化、経済体制、政治体制のような要因に依存する。リベラリズムはまた国家間の相互作用が政治レベルに限定されるだけでなく(ハイポリティクス)、企業、国際機構、個人を通じて経済分野(ローポリティクス)にまで及ぶと主張する。したがって協調に向けた多くの機会や、文化資本のような広範な権力概念が含まれる。 もうひとつの前提は、絶対利得が協調と相互依存を通じて得られ、平和が達成されるというものである。リベラリズムには数多くの潮流が存在する。商業的リベラリズム、(ネオ)リベラル制度論、理想主義、レジーム論などが含まれる。」、また「近代社会が不可避的に抱え込む価値対立とその克服のために構想された政治哲学原理。欧州における価値対立の問題は、宗教改革が引き起こしたカトリックとプロテスタントの宗教戦争を起源としている。異質な価値観を持った者同士の共存は個々人の自由を認め合い、共生することでしか解決しないという考えに基づき、ホッブズ、ロック、ルソー、カント、ヘーゲルといった近代哲学者は、『自由』を権利の基本原理とするリベラリズムの立場を深めてきた。ところが現在、リベラリズムに対しては様々な立場からの批判がある。フェミニズムや多文化主義は、その普遍性と公私の区分を批判する。また共同体主義はリベラリズムの想定する人間を、共同体の伝統や慣習から切り離されて具体的な内実を失った抽象的な個人とみなし、批判する。伝統的価値や人種や性別のような具体的な属性なしに、諸個人が『善き生』の構想を持つことはできないとするのである。また現代のリベラリズムは、権利や政治的正当性の基礎となる原理として必ずしも『自由』に依拠するわけではなく、論者によって様々な考え方がある。その意味でリベラリズムの一般的な訳語としての「自由主義」は適切とはいえない。例えば初期のロールズは公正を、ドゥオーキンは平等を基底的理念として提示した。ロールズは初期にはリベラリズムを人類的普遍性を持つものとして基礎付けようとしたが、後に近代市民社会という特殊な社会だけに適応できる政治思想としてその普遍性を否定した。その結果、権利の基礎の哲学的探求を放棄し、ローティやグレイらと同様に『政治的リベラリズム』の立場に立った。このようにリベラリズムの根本原理は何であるのか、またそれは必要なのかを巡っては、現在でも多くの議論がなされている。」とのこと、この時も私は思ったのですが、「ゴーゴリ」の『死せる魂』は当時みんなあたかも読んで知っているように書かれていますが、それはどうなんでしょうか、その前に当時の識字率が気になり、少し調べてみました、「佐々木中」の『切りとれ-あの祈る手を』というアフォリズム的な本がありますがその中に次のようなことが書かれています、勝手に引用させていただきまます、「・・・・今の統計学からいっても正しいであろう識字率の一斉調査がおこなわれるのは1850年です。19世紀の半ばです。19世紀の半ばと言えば、「ああ、偉大なる文学の日々」ということになりますよね。われわれにとっては過ぎ去った文学の黄金時代です。では、1850年の成人文盲率はどれくらいだったか。ちなみにここで成人文盲率というのはいわば文盲の最小限ですよ。識字者とカウントされた人でも、自分の名前が書け、標識が読め、あるいは本の表紙が読めるという位のもので、書物が読めるとは限りません。さて1850年のイングランドはどうだったか。最先進国ですね。成人文盲率は30パーセントです。1850年というとディケンズが『ディヴィッド・コパフィールド』を出版した年です。ではフランスは。40パーセントから45パーセントでした。どういうものが出版されていたか。まずこの年は、バルザックが死んだ年なんです。『谷間の百合』が1853年です。スタンダールの『パルムの僧院』が1839年、フローベールの『ボヴァリー夫人』が1857年、ボードレールの『悪の華』の初版も1857年です。イタリアの文盲率が70パーセントから75パーセント。スペインの文盲率が75パーセントですか。全く、われらがセルバンテスは何を考えていたんだという感じですね。もっと「素敵」なのはロシアです。1850年、ロシア帝国の文盲率はどれくらいだったか。90パーセントです、です。最新の研究だと95パーセントとする文献もある。しかも、ロシアだけ「全文盲」のデータです。まあ、百歩譲って90パーセントということにしましょう。例えばあなたに友達が10人いて、そのなかで一人しか自分の書いたものが読めない。そういう状況です。しかも何しろ「全」文盲が9割ですから、そのたった一人の字が読める友人も、本が読めるかというと、極めてあやしい。先ほど言ったように、暦が読めて標識が読めて自分の名前が書けるぐらいのものかもしれない。絶望的な状況です。夜中にふと窓なんか迂闊に見上げたらまたぞろジブリールが百合を手にして金色に光っているかもしれないくらいの有様ですよ。では、この1850年前後に誰が何を出版していたか。プーシキンが1836年に『大尉の娘』を出す。ゴーゴリが1842年に『死せる魂』を出す。ドストエフスキーが1846年にデビュー作『貧しき人びと』を。トルストイが1852年に『幼年時代』を。ツルゲーネフが1852年に『猟人日記』を。無茶苦茶だ。何なんですかこの人たちは。呆然でしょう。どうしてこのような状況でこんなものが次々と書けるのか。念のため。その当時のロシアの人口も出ています。初のロシア人口調査が1851年に行われましたから。それによると、当時のロシア帝国の人口は4000万人です。大まけにまけて10パーセントの400万人がドストエフスキーが読めていた……なんて思えないですよね。400万人しか自分のサインが書ける人がいないという無体な状況で、『罪と罰』とか次々と書くわけです。一体この連中は何を考えているのか。端的に9割以上読めないんですよ。ロシア語で文学なんてやったって無駄なんです。こんな破滅的な状況で、何故書くことができたのか。はっきり言いますよ。今や文学は危機を迎えていて、近代文学は死んだのであって、そもそも文学なんて終わりで、などという様悪しいことを一度でも公言したことがある人は、フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキーという聖なる名を二度と口に出さないで頂きたい。」と。
もっとも拍手したのは二、三のサクラ(三字の上に傍点)だけだったので、裁判長は『退廷を命ずる』という脅し文句を傍聴人に発する必要すら認めず、サクラたちの方をきびしく見据えたにすぎませんでした。
「二、三のサクラ」にここで拍手するように打ち合わせでもしていたのでしょうか、この辺の常識がわかりませんが。
しかし、「イッポリート」は元気づきました。
これまで拍手されたことなど、一度もなかったからだ!
永年の間、自説をきこうとされなかった人間が、突然、ロシア全土に対して意見を吐露するチャンスに恵まれたのである!
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