2019年1月29日火曜日

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再び「イッポリート」の論告の続きです。

「ところで、現代的な一家の父のもとに生れた三人目の息子でありますが」

「イッポリート」はつづけました。

「彼は今、被告席に坐り、われわれの前におります。われわれの前には、彼の数々の武勇伝も、生活も、行為もある。ついに時が来て、すべてが明るみに出、すべてが暴露されたのです。二人の弟の《ヨーロッパ主義》と《民衆の原理》とは対象的に、彼はそれ自体あるがままのロシアを表わしているのです。ああ、しかしロシア全体をではありません、全体ではない、これが全体だとしたらとんでもないことです! が、それでもここにはわがロシアがある。母なるロシアの匂いがし、声がきこえるのです。ああ、彼は直截な人間であります。善と悪とのふしぎな混合物です。文明とシラーの愛好者でありながら、同時に居酒屋で飲んだくれ、酔払いの飲み友達の顎ひげを引きむしるのです。そう、彼とて立派な美しい人間になることもある、だがそれは彼自身が立派な美しい気持でいるときに限られています。また反対に、彼はきわめて高潔な理想に燃え、まさに燃えあがることもある、だがそれもやはり、その理想がひとりでに達成され、棚ぼた式に落ちてきてくれるという条件付きの場合に限られており、何よりも、何一つ支払わずに、ただで手に入ることが必要なのであります。彼は支払うのはひどくきらいな代り、もらうのは大好きときている、しかも万事につけてそうなのです。そう、彼にありとあらゆる幸福を(ぜひとも、ありとあらゆる幸福でなければだめです、少しでも値切ったら手をうちませんよ)授け、彼の性質をどんな面でも妨げずにいてごらんなさい、そうすれば彼だって立派な美しい人間になれることを証明してみせるでしょう。彼は貪欲ではない、そうです、それでも、彼に金をなるべく多く、できるだけたくさん与えてごらんになるといい、そうすれば彼がその卑しむべき金属(訳注 金のこと。ゴンチャロフが『平凡物語』ではじめてこの形容を用いた)をどれほど見くだして、どれほど大らかに、たった一晩の無礼講の酒盛りで撒きちらしてしまうか、おわかりになるでしょう。また金をもらえなくとも、彼はたって必要なときにはどうやって手に入れてみせるか、ごらんにいれるでしょう。だが、その話はあとにして、順序を追って話をすすめることにします。何よりもまず、われわれの前に、親に見棄てられたかわいそうな男の子が登場します。先ほど、この町の尊敬すべき立派な、ただ残念ながらご出身は外国の市民がおっしゃった言葉を借りるなら、この子は《長靴もはかずに裏庭に》いたのであります! もう一度くりかえしておきますが、わたしは被告の弁護にかけては人後に落ちぬものであります! わたしは検事であり、弁護人でもあるのです。そうです、われわれとて人間です、血も涙もあります、幼年時代や生家の最初の印象が性格にどのような影響を与えるか、われわれとて理解できるのです。しかし、やがてその男の子も青年になりました。今や若者であり、将校であります。乱暴な振舞いや決闘沙汰がたたって彼は、豊かなロシアの遠い国境の町の一つに流されました。その地で彼は勤務し、その地で派手に遊びました。そしてもちろん、船が大きければ航海も大きいわけで、資金が必要です。何よりもまず資本が必要となり、永い争いの末に彼は父と最後の六千ルーブルで手を打ち、その金が送られたのです。ご記憶ねがいたいのは、彼が一札を入れたという点であります。残額はほとんど放棄し、その六千ルーブルで遺産をめぐる父との争いを打ち切るという旨の手紙が、存在しているのです。このころ、気高い性格と教養をそなえた若い令嬢と彼との出会いが、生れたのでした、ああ、わたしはあえて詳細をくりかえすことはいたしますまい、たった今みなさんがおききになったとおりであります。そこには名誉や、自己犠牲の問題があるので、わたしは口をとざします。軽薄で放埓ではありながら、真の高潔さの前に、高尚な思想の前に頭を垂れた一人の青年の姿が、われわれの前にきわめて共感をこめてちらと見えたはずです。だが、それにつづいて突然、同じこの法廷で、まったく思いがっけなくメダルの裏面が示されたのです。・・・・」

まだまだ続きますのでここで切ります。

ここからの「イッポリート」の論告は圧巻です、まず①「イワン」を《ヨーロッパ主義》、②「アリョーシャ」を《民衆の原理》、③「ドミートリイ」を「善悪が同居するあるがままのロシア」と批判的にまとめています、「文明とシラーの愛好者でありながら」というのは、「アリョーシャ」が「イッポリート」に語ったのかもしれません、(311)で「ドミートリイ」は「アリョーシャ」に「お前だけは笑わないだろうな。俺はこの告白を・・・シラーの歓喜の歌で・・・はじめたいんだ。」と話していました、「酔払いの飲み友達の顎ひげを引きむしる」というのは二等大尉の「スネギリョフ」のことですが「飲み友達」とは言えないのでは。

「ゴンチャロフ」は、「イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ(1812年6月18日〔ユリウス暦6月6日〕 - 1891年9月27日〔ユリウス暦9月15日〕)は、ロシアの作家。代表作は小説『オブローモフ』。1812年にシンビルスク(現在のウリヤノフスク)に生まれる。父親は裕福な穀物商であった。1834年にモスクワ大学を卒業した後、30年間、政府の役人として働いた。1834年、貴族層と商人層との対立を描いた最初の小説『平凡な話(ロシア語版、英語版)』が出版される。1848年、自然主義的な心理描写『イワン・サヴィチ・ポジャブリン』を発表。1852年から1855年まで、イギリス・アフリカ・日本に旅し(1853年に長崎に来航)、プチャーチン提督の秘書官としてシベリアを経由して帰国。1858年にその紀行文『フリゲート艦パルラダ号』を刊行。(抄訳は『ゴンチャローフ日本渡航記』講談社学術文庫)1859年、ペテルブルクに暮らす無為徒食の独身貴族、余計者のオブローモフの生涯を描いた小説『オブローモフ』を発表。フョードル・ドストエフスキーに高く評価されるなど、大きな反響を呼び、代表作となった。1869年、謎の女に恋した3人の男を描いた最後の小説『断崖』を発表。晩年、多くの短編・批評・随筆などを書いたが、それらの多くは死後1919年に刊行された。1891年にペテルブルクで肺炎を患い、死去。生涯独身であった。」とのこと。

『平凡物語』については、ネットで誰かがこう書いていました、「永久不変の恋愛を信ずる者も、信じない者も同じことをするのだ。ただそれに気がつかなかったり、気がついても認めようとしないまでだ。われわれはそれよりもっと高尚で、人間ではなくて天使です、などと言うのは、愚劣なことだ!(上巻190ページ)田舎の青年貴族アレクサンドル・アドゥーエフは、栄光を求めてペテルブルグへ赴く。彼が頼ったのは、冷静で打算的な叔父ピョートルであった。ペテルブルグでアレクサンドルはさまざまな挫折と絶望を味わい、ピョートルはいちいちそれに訓戒を加える。経験と叔父との議論とを通して、ロマンチストだったアレクサンドルはゆっくりと変わっていく。ついに復刊とあいなったゴンチャロフの処女長編。60年近く前の訳書の復刊であるが、翻訳は極めて読みやすく、光文社の新訳文庫で出てても不思議ではないくらい。解説の分量が少ないのがやや物足りないところだが。アレクサンドルが章ごとにいろいろと経験をし、それについて叔父ピョートルと議論するというスタイルで、はっきり言って長編小説の構成としては稚拙な印象を受ける(現代の文学どころか、同時代の英仏あたりの一流どころと比べても)。また叔父ピョートルの口から語られるロマン主義批判もちょっと露骨すぎる。でも良いのである。ゴンチャロフだから。そしてゴンチャロフの数少ない長編が復刊されたことを祝おう。冷静なリアリストでありながら、ことあるたびにアレクサンドルに訓戒を垂れる叔父ピョートルは間違いなく世話焼きの善人。で、アレクサンドルは若者として当然のことながら、叔父の言葉なんか受け入れやしないのだけれど、それでまた失敗すると、叔父もまた忠告をするわけである。愛すべき人物としか言いようが無い。そのセリフも、よくもまあこうもぽんぽんと警句が飛び出すものだと感心する。名言のバーゲンセール。会話もユーモラスで、読んでいて楽しい。」と、私もそのうち読んでみたいと思いました。


「乱暴な振舞いや決闘沙汰がたたって彼は、豊かなロシアの遠い国境の町の一つに流されました。」ということははじめて知りましたが、単なる転勤ではなく理由があって左遷させられたのですね。


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