2019年2月21日木曜日

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「フェチュコーウィチ」の弁論の続きです。

「・・・・しかし、同じこの心理学を用いて、ただし別の面から事件にあてはめてみると、まったくこれに劣らぬくらい真実らしい結果が生ずるのです。犯人は目撃者の生死を確かめるという警戒心からとびおりた。ところが一方でその犯人は、検事自身の証明によれば、三千ルーブル入っていると上書きされている、引き裂かれた封筒という重大な証拠物件を、自分が殺した父親の書斎に置きすててきたばかりなのです。『もし彼がこの封筒を持ち去っていれば、世界じゅうのだれ一人、そんな封筒が存在してそこに金が入っていたことなど、気づかなかったはずであり、したがって被告によってその金が奪われたことも気づかなかったにちがいない』これは検事自身の言葉であります。だとすると、一方では警戒心が足りずに、うろたえ、怯えて、証拠物件を床に置きすてたまま逃げだした人間が、ものの二分とたたぬうちに別の人間を殴りつけて殺し、今度は都合のいいことに、すぐさまきわめて冷酷で打算的な警戒の気持を起してくれたことになるのです。だが、それもいいでしょう。そうだったことにしましょう。こういう状況の下では、たった今コーカサスの鷲のように残忍で炯眼(けいがん)だった人間が、次の瞬間にはつまらないモグラのように盲目で臆病になるという、まさにその点にこそ、心理学の微妙さが存するからです。しかし、殺したあと、目撃者が生きているかどうかを確かめるためにだけ、庭へとびおりるほど残忍で、冷酷なまでに打算的な人間であるとしたら、いったい何のためにまる五分もの間、その新しい犠牲者にかかずり合って、さらに新しい目撃者を作るかもしれぬような真似をしたのだろう、という気がします。何のために被害者の頭の血をぬぐって、ハンカチを血でぐっしょりにし、そのハンカチがあとで不利な証拠になるようなことをしたのでしょう? そう、もしそれほど打算的で冷酷なのだったら、いっそ、とびおりるなり、倒れた召使の頭をあっさりと同じその杵で何度も殴りつけて、完全に殺し、目撃者を根絶やしにして、いっさいの心配を心から取り除くほうがいいではありませんか? そして最後に、目撃者が生きているかどうかを確かめるためにとびおりたとき、被告はもう一つの証拠物件、すなわち例の杵を、そこの小道に置き去りにしたのです。この杵は二人の女性のところからひっつかんできたものであり、彼女たちはどちらもあとで、その杵を自分のものと認めて、被告が自分たちのところからひっつかんでいったのだと証言することが、いつでもできるわけです。しかも、被告はその杵を道に置き忘れたとか、うろたえ放心して落したたかいうのではありません。そうではない、グリゴーリイが倒れていた場所から十五歩くらい離れたところから杵が発見された以上、まさしく被告は凶器を放り投げたのであります。そこで質問したいのですが、何のためにそんなことをしたのでしょう? 被告がそんなことをしたのは、まさしく、一人の人間を、年老いた召使を殺したことが悲しくなったからであり、だからこそ凶器である杵を腹立ちまぎれに、呪いをこめて投げすてたのです。そうとしか考えられません。いったい何のためにあんなに力いっぱい放り投げることがあったでしょうか? また、人間を殺してしまったという憐れみと痛苦を感じえたとするなら、もちろんそれは、父親を殺さなかったからなのです。父親を殺したあとなら、もう一人の被害者のところへ憐れみの気持からとびおりたりしないはずです。その場合は、もはや別の感情が起ったにちがいないし、憐れみどころではなく、自分を救う気持が先に立ったはずです。もちろん、そうにちがいありません。くりかえしになりますが、反対に頭蓋骨を徹底的にたたき割ったはずで、五分間もかかずらってなどいないでしょう。憐れみと、やさしい感情が現れたのは、まさしく、それまで良心が清らかだったからにほかなりません。したがって、これはまったく別の心理学になるのです。陪審員のみなさん、わたしは今、心理学からはどのような結論でも引きだせることを、わかりやすく示すために、わざと自分も心理学を用いてみました。問題は、だれがどうそれを用いるかにあるのです。心理学はきわめてまじめな人たちにさえ、創作欲をかきたてるものであり、しかもそれがまったく無意識のうちになのです。陪審員のみなさん、わたしの申すのは、必要以上の心理分析と、そのある種の悪用のことであります」

「炯眼(けいがん)」とは(1) 鋭く光る目。鋭い目つき。「―人を射る」(2) 物事をはっきりと見抜く力。鋭い眼力。慧眼(けいがん)。「―をもって鳴る批評家」とのことです、また、こういうのもありました、(1)鋭く光る目。(2)眼力が鋭く、洞察力が優れていること。慧眼。《秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。(太宰治『ア、秋』)》。

ここでいう「心理学」とは、被告の行動を被告の心の動きから合理的に説明するものとして使っているようですね、「行動心理学」とかいうものに近いようですが、これは「フェチュコーウィチ」がいうように「問題は、だれがどうそれを用いるかにあるのです」なのだと思います、しかし、まだ彼の弁論がはじまったばかりですが、ここに表記された話し方は「イッポリート」のような情熱的な迫力はありませんね。

ここでふたたび傍証席に、賛同の笑い声がきこえ、それはすべて検事に向けられたものでした。


わたしは弁護人の弁論全部をくわしく引用することはやめにして、その中からいくつかの個所や、二、三の重要な点だけをあげることにします。


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