「イッポリート」の二度目の弁論の引用の続きです。
「・・・・福音書と宗教も修正されました。あんなものはすべて神秘であり、われわれのこそ、理性と健全な認識との分析で確かめられた本当のキリスト教だ、と言うのであります。そして、われわれの前に似而非(えせ)キリスト教を打ちたてたのです! 『あなた方の量るそのはかりで、自分も量られるだろう』と弁護人は絶叫し、同時にすぐ、キリストは自分が量られた同じそのはかりで量れと説いたのだ、という結論を出しました-これが、真実と健全な認識との演壇から発せられた言葉であります! 弁護人は弁論の前夜になってやっと、かなり独創的なこの著作を一応は知っていることをひけらかすために、福音書をのぞいてみたのです。福音書も必要に応じて役に立つかもしれぬし、何らかの効果をあげるのに使えるかもしれない、万事は必要の度合いに応じてだ、というわけでしょう! しかし、キリストはまさにこういう行いをしてはならぬ、こういう行いは慎めと、命じたのです。なぜなら、こんな行いをするのは悪の世界だからであります。だが、われわれは赦さねばなりません、もう一方の頬もさしださねばなりません、われわれの侮辱者が量った同じそのはかりで量ってはならないのです。神がわれわれに教えてくれたのは、まさにこういうことであって、子供たちに父親殺しを禁ずるのは偏見だなどということではないのです。『汝はわれらの神なり!』とよびかけた正教のロシア全体に逆らって、弁護人が単に『はりつけにされた博愛の人』とよびすてにした、われらの神の福音書を、わたしたちは心理と健全な認識の演壇から修正するような真似はやめようではありませんか!』
この「イッポリート」の言う「はかり」のくだりはどういうことでしょう、彼は「フェチュコーウィチ」が福音書を修正したのだと言っています、(1071)にコピペした「マタイによる福音書」では「07:01「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 07:02あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と書かれている部分です、その部分を「フェチュコーウィチ」は、同じく(1071)で「・・・・『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』これはもはやわたしが言うのではなく、福音書の教えであり、自分が量られた同じそのはかりで量れという意味であります。子供たちがわれわれと同じはかりで量ったからといって、どうしてこれを非難できるでしょうか?・・・・」と言っており、つまり福音書では、「人を裁くな」という趣旨であるのに彼は「裁け」と言っていると修正しているというのでしょう。
ここで裁判長が口をはさみ、こういう場合の裁判長の決り文句として、あまり誇張せずに守るべき限界を越えぬよう、むきになった検事をたしなめました。
それに法廷も騒然としていました。
傍聴席はざわつき、憤りの叫びさえきこえました。
「フェチュコーウィチ」は反駁さえしようとせず、登壇すると、片手を胸に当て、腹立たしげな声で威厳にみちた言葉を数言述べただけでした。
彼はふたたび《小説》と《心理分析》にごくあっさりと嘲笑的に言及し、ある個所では、「ジュピターよ、君は怒った、してみると正しくないのだ」(訳注 ギリシャの風刺作家ルキアヌスの台詞のパロディ)という一句をはさみました。
「ルキアヌス」は、「ルキアノスはギリシャ語で執筆したシリア人の風刺作家である。
ルキアノスはシリアのサモサタで生まれ、アテナイで没した。父親の職業は不明だが、祖父と叔父が石工であり、ルキアノスを叔父の徒弟にしようとしていた。若き日は哲学、弁論、医学など様々な分野種々の流派の学問を聴講し勉学を積んだが、やがて弁論の虜になる(後年、弁論による興行的な活動にも従事している)。シリア属州生まれゆえの「夷狄訛り」を克服し、ギリシャ語と弁論術を習得して弁論家として一本立ちする。アテナイで弁論家及び弁護士として活躍もしていた他、一時アンティオキアで弁護士の仕事もしていたと伝えられている。イタリアや大西洋岸ガリアなどへ旅行し、彼の地にて誇示的な演説を披露し、成功を収めてさえいる。また、ガリアに一時的に居住していたともされる。
彼は80以上の作品の著者とみなされているが、それら全てを著わしたわけではないと考えられる。最も知られている著作としては『神々の対話』と『死者の対話』があげられる。
風刺作品に『ペレグリーノスの昇天』があるが、この作品では主人公のペレグリーノスがキリスト教徒たちの寛大さとだまされやすさにつけ込むという話が展開されている。これは非キリスト教徒から見たキリスト教をとらえた書物で現在残っている初期のものの一つである。また、『本当の話』という作品では、月への旅行譚を書いており、しばしば最古のSFの一つとして言及される。」とのこと。
これは傍聴席に、多数の賛同の笑い声をひき起こしました。
なぜなら、「イッポリート」はまるきりジュピターに似たところがなかったからであります。
「ジュピター」は「ユーピテル(ラテン語: Jūpiter, Juppiter, 古典綴 IVPPITER)は、ローマ神話の主神である。また最高位の女神であるユーノーの夫である。 時として女性化・女体化して女神となり、その姿がディアーナであるという言い伝えもある。」とのこと、聴衆はなぜ「イッポリート」はまるきりジュピターに似たところがないということで笑ったのでしょうか、ちなみに下に「ジュピター」の彫像を貼り付けておきます。
さらに、若い世代に父親殺しを容認したと言わんばかりの非難に対して、「フェチュコーウィチ」は、反駁する気にもなれないと、深い威厳をこめて言いきりました。
《似而非キリストの像》だの、彼がキリストを神とよばず、単に《はりつけにされた博愛の人》とよんだことだの、それが『正教に反しており、心理と健全な認識の演壇から口にしてはならぬことである』という点だのに関して、「フェチュコーウィチ」はそれが《中傷》であることをほのめかし、当地へ来るに際して少なくとも自分は、少なくとも当地の法廷が《忠良な臣民であり一市民である自分の人格にとって危険な》非難からは保証されているものと考えていた、と嫌味を述べました。
しかし、この言葉をきいて裁判長が彼をもたしなめましたので、「フェチュコーウィチ」は一礼し、傍聴席全体の好意的なささやきに送られながら、弁論を終えました。
この町の婦人たちの意見では、「イッポリート」は《永久に押しつぶされて》しまいました。
ここまでの印象では、完全に「フェチュコーウィチ」有利ですね。
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