十三 思想の姦通者
(訳注 一八七五年、保守的な社会評論家マルコフが『声』紙に『十九世紀のソフィスト』なる一文を発表し、その中で農奴解放後の公開裁判における弁護人を『思想の姦通者』とよんで反響と批判をまき起した。「思想の姦通者」とは、目的のためには白を黒と言いくるめようとし、詭弁を弄する無原則な弁護士を意味する言葉として大いにりゅうこうした。)
この「マルコフ」という人物はネットで調べてもわかりませんでした、「ソフィスト」は「ペルシア戦争(紀元前492年 - 紀元前449年)後からペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)ごろまで、主にギリシアのアテナイを中心に活動した、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家・教育家。ギリシア原語に近い読みはソピステースである。『sophistēs』という語は『sophizō』という動詞から作られた名詞で、『智が働くようにしてくれる人』『教えてくれる人』といった意味がある。代表的なソフィストにはプロタゴラス、ヒッピアス、ゴルギアス、プロディコス等がいる」とのこと、また「紀元前五世紀頃,アテネを中心として弁論術や政治・法律などの教養を教えた職業的教育家たち。プロタゴラス・ゴルギアス・ヒッピアス・プロディコスを代表者とする。論争修辞に走ったと評されるところから,現代では詭弁家という意味に転用されている」とも。
「陪審員のみなさん、わたしの依頼人を滅ぼすのは、単なる事実の総和ではありません」
彼は声を高めて言い放ちました。
「そう、わたしの依頼人を本当の意味で破滅させるのは、ただ一つに事実なのです。それは年老いた父親の死体であります! これがもし単純な殺人事件であれば、みなさん方も、数々の事実を全部ひっくるめてではなく、個々に一つずつ検討した場合の、それらの事実の下らなさや、証拠のなさ、荒唐無稽などを考えて、起訴を却下することでしょう。少なくとも、悲しいことに被告の自業自得とも言うべき先入観だけで、一人の人間の運命を破滅させることに疑いを持たれるはずであります! だが、今の場合、単純な殺人事件ではなく、父親殺しなのです! これが威圧感を、それも極度の威圧感を与えるため、ごく下らぬ証拠不十分な起訴事実まで、さほど下らぬ証拠不十分のものではないように思われてくるのです。まったく先入観をいだかぬ頭にさえ、そう思えるのです。そんな被告をどうして無罪にできよう? 父親を殺したのに、どうして罰も受けずにのがれられると言うのか-だれもが心の中でほとんど無意識に、本能的にこう感ずるのです。そう、父親の血を流すのは恐ろしいことであります-それは、われわれを生んでくれた人の血を、われわれを愛してくれた人の血を、われわれのためになら自分の生命も惜しまず、幼いころからわれわれの病気に心を痛め、一生われわれの幸福のために苦労し、われわれの喜びや成功だけを生き甲斐としてしてきた人の血を流すことなのです! ああ、そのような父親を殺すなど、考えてみることもできますまい! 陪審員のみなさん、父親とは、真の父親とは、そも何でありましょうか、それはなんという偉大な言葉でしょう、この名称にはなんという恐ろしく偉大な理念が含まれていることでしょうか! わたしはたった今、真の父親とはいかなるものであり、いかなるものであるべきかを、ある程度示しました。ところが、現在われわれすべてが心を奪われ、心を痛めている本事件においては、父親である故フョードル・カラマーゾフは、ただいまわれわれの心に映じた父親の概念には、まったく該当しないのであります。これは災難です。そう、事実、ある種の父親は災難のようなものであります。この災難をもっと近くで検討してみようではありませんか。陪審員のみなさん、さし迫った決定の重大さを考えれば、何一つ恐れる必要はありません。われわれは特に今や恐れるべきではないし、才能豊かな検事の好都合な表現を借りるなら、子供や臆病な女のように、いわばある種の思想をふりすてるべきではないのです。ところが、尊敬すべきわが論敵は(彼はわたしが最初の一言を口にする前から、すでに論敵だったのですが)、その熱弁の中で何度かこう叫ばれました。『いいえ、わたしは被告の弁護をだれに委ねるつもりもありません。被告の弁護を、ペテルブルグから来られた弁護人に譲るつもりはないのです。わたしは検事であり、弁護人でもあります!』こう検事は何度か叫ばれたのですが、それでいながら、この恐るべき被告が父の家にいた子供のころ、かわいがってくれた唯一の人間からわずか四百グラムのくるみをもらったことを、まる二十三年間も感謝しつづけているような人間であれば、反対に、人情深いヘルツェンシトゥーベ博士の表現を借りるなら、父の家で『長靴もはかず、ボタンの一つしかないズボンをはいて、裏庭を』はだしで走りまわっていたことを、思いださずにはいられないはずであるという点に、言及するのを忘れたのです。そう、陪審員のみなさん、何のためにわれわれはこの《災難》をさらに近々と見つめ、だれもがすでに承知していることを蒸し返す必要があるとお思いですか! 父のもとに帰ってきたとき、わたしの依頼人が遭遇したものは、いったい何だったでしょう? それになぜ、どういうわけでわたしの依頼人を、冷淡なエゴイストの怪物として描きださねばならないのでしょうか? 彼は抑制のきかぬ人間であり、野蛮で粗暴です。だから今われわれは彼を裁いているのです。だが、彼の運命はいったいだれの責任でしょう? 立派な資質と、高潔な感じやすい心をそなえながら、彼があのような愚劣な躾を受けたのは、だれの罪でしょうか? だれにせよ、彼に常識や分別を教えこんだ人がいるでしょうか、学問で知能を磨かれたでしょうか、幼年時代に多少なりと彼を愛してやった人があるでしょうか? わたしの依頼人は神の庇護によって、つまり野獣と同様に育ったのであります。・・・・」
ここで切ります。
「フェチュコーウィチ」が「フョードル」のことを「ある種の父親は災難のようなものであります」と言い、現代にもつながる児童虐待を批判する展開は感動的でさえあります、そしてその劣悪な環境が「ドミートリイ」の性格形成に与えた影響を云々することは、この時代では新しいことだったのはないでしょうか、これは聴衆の感情に同情心を訴えると思いますが、「フェチュコーウィチ」は彼が殺人を犯していないという立場なので、そのことと殺人は別物ですね。
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