2017年11月15日水曜日

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わたしの涙を赦してほしい、これというのもわたしがこの本を愛しているからなのだ。

これを読んでやる司祭も泣くがいい、そうすればその答えとして、きいている人たちの胸が感動に打ちふるえるのを見ることができるだろう。

必要なのはごく小さな一粒の種子にすぎない。

これは例の(4)で出てきた『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』のことですね。

また、少し前の(580)にも「ゾシマ長老」は「アリョーシャ」にこの『ヨハネによる福音書第十二章』の言葉を語っていました。

その種子を民衆の胸に投げこんでやれば、それは死ぬことなく、一生その胸に生きつづけ、心の闇の中に、罪の悪臭のただなかに、明るい一つの点となり、大きな警告としてひそみつづけることだろう。

だからあれこれと説き、教えこむ必要はない。

民衆はすべてを素朴にわかってくれるのだ。

諸師は民衆が理解してくれないとでも思っておられるのか?

試みに、さらに先へすすんで、美しいエステルと傲慢なワシテとの、心を打つ感動的な物語(訳注 エステル記)なり、大いなる魚の腹に入った預言者ヨナのふしぎな物語(訳注 ヨナ書)なりを読んでやるがよい。

『エステル記』とは、「旧約聖書の中の一書。ユダヤ教の分類では「諸書」の1つ、キリスト教では一連の歴史物語の最後に置かれる。外典にもギリシア語版があり、更に詳細な内容となっている。メギラーは巻物のことであるが、単にメギラーという場合はこの『エステル記』を指す。ユダヤ教聖書では1巻の巻物になっており、プーリムの祭りの際にシナゴーグで読まれる。エステルの勇気によってユダヤ人が救われたことを祝うのが、ユダヤ教のプーリムの祭りである。ペルシャ王の后となったユダヤ人女性エステルの知恵と活躍を描くこの書は、その主人公的役割を演ずるエステルの名をもって『エステル記』と呼ばれる。聖書中、女性の名が書名として用いられているのは、『ルツ記』と『エステル記』のみである。」とのこと。

『ヨナ書』とは、「旧約聖書文書のひとつ。ユダヤ教では「後の預言者」に、キリスト教では預言書に分類する。キリスト教でいう十二小預言書の5番目に位置する。4章からなる。内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっているが、ヨナが大きな魚に飲まれる話が有名。著者は不明。ヨナ自身が書いたとする説はある。この書は、異邦人を主人公としているルツ記と同じように、イスラエルの民の選民思想・特権意識を否定しており、当時のユダヤ人には驚くべき内容であった。この点において旧約聖書文書の中で異彩を放っている。」とのこと。

それからまた、主の寓話も忘れてはならぬが、これは主としてルカ福音書によるといい(わたしもそうしてきた)、さらに『使徒行伝』からはサウロ(訳注 使徒パウルのこと)の呼びかけを(これはぜひ、必ず読んでほしい)、そして最後に『殉教者伝』(訳注 十六世紀にモスクワで編纂されたもの)から、せめて神の人アレクセイの生涯や、偉大な中でも偉大な喜びの殉教者で、神の姿を見てキリストを胸にいだく尼僧エジプトのマリヤ(訳注 若いころ身持がわるく、のち信仰に入って荒野で四十七年をすごした聖女)の生涯なりを読んできかせるがよい。

『使徒行伝』とは、「戦前の日本語訳聖書では、プロテスタントによる文語訳聖書(明治元訳・大正改訳)が『使徒行伝』(しとぎょうでん)の呼称を用い、日本正教会訳聖書では『聖使徒行実』(せいしとぎょうじつ)、カトリック教会のラゲ訳聖書では『使徒行録』(しとぎょうろく)と呼ばれた。戦後では、まず正教会が戦前と同じ日本正教会訳聖書、『聖使徒行実』の呼称を現在まで用い続けている。一方プロテスタントでは新しく作られた口語訳聖書では引き続き『使徒行伝』の呼称が用いられたものの、口語訳聖書の翻訳方針に反発した福音派の人々による新改訳聖書では『使徒の働き』と訳された。その後カトリックとプロテスタントの双方により訳された共同訳聖書では『使徒の宣教』、新共同訳聖書では『使徒言行録』と呼称された。カトリック教会で用いられる聖書では、バルバロ訳聖書やフランシスコ会訳聖書分冊版ではラゲ訳と同様に『使徒行録』と呼ばれていたが、分冊版より後に出たフランシスコ会訳合冊版では新共同訳に合わせて『使徒言行録』の呼称が用いられている。その他のキリスト教の教会で用いられる聖書では、現代訳聖書で『初代教会の働き』と呼ばれる。また教会の礼拝で用いられる訳ではないが、岩波文庫訳聖書(塚本虎二訳)では『使徒のはたらき』としている。エホバの証人の新世界訳聖書では、『使徒たちの活動』としている。」、名称に関してのことはこのように複雑で
すね。

『殉教者伝』については、ネットではよくわかりませんでした。

そうすれば、この素朴な物語で民衆の心を刺し貫くことができるのだ。

わたしは、まったく宗教書については無知で何のことかわかりませんが、興味を持ちました。


「ゾシマ長老」は、今後の教会のことを心配しているようですね、どうすればよいかということを具体的に話しています。


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