わきに仕えていた見習い僧を長老はかえりみました。
「わたしがお前よりアレクセイをかわいがっているという悲しみの色を、私は何度もお前の顔に見たものだ。なぜそうだったか、これでわかってくれたね。でも、私は何度もお前の顔に見たものだ。なぜそうだったか、これでわかってくれたね。でも、私はお前を愛しておるのだよ、それだけは知っておいてほしい。だから、お前が悲しむのを見て、わたしも幾度となくつらい思いをしたものだった。ところで、客人がた、わたしはその青年のことを、つまりわたしの兄のことを、みなさんにお話ししようと思う。それというのも、わたしの生涯にこれほど貴重な、予言的な、感動的な現象はほかになかったからです。わたしの心は深く感動し、今この瞬間、わたしはさながらあらためて人生をたどり直しているかのように、これまでの一生を見つめているのですよ・・・・」
(581)で「・・・・話の対象は他の客人に重点を少しだけ移します。」と書いたのですが、そうではありませんでした。
ここにもうひとり立ったままひかえている見習い僧の「ポルフィーリイ」がおり、「ゾシマ長老」はその彼に話しているのでした。
つまり「ゾシマ長老」は、同じような年齢で、少し違いますが同じような立場のふたりに対して、片方だけを依怙贔屓していることを最後になって詫びているのですね。
人生の最後の最後になって、そんな小さなこと、と言えばおかしいのですが、そんなことにまで気を配っているのです。
作品をここまで読み進めている読者にとっても、このことは頭の中のどこかに燻りつづけていたことなのではないでしょうか。
おそらくそんなことは創作上の伏線ということではなかったと思いますが、ここにきて、言及されています。
そして、(578)で私が思ったこと、つまり「彼の生い立ちを詳しく知りたくなりました。」ということと、(580)で書いた「お前をその顔ゆえに祝福してきた」とはどういうことでしょうか。」というふたつの疑問が今から取り上げられようとしているのです。

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