ここで断わっておかねばならないが・・・・と、この物語の語り手は書いています。
この語り手というのは、物語を総括的に述べることのできる人物として作者が設定した登場人物のひとりです。
そして、続きます。
・・・・長老が生涯の最後の日に訪れた客人たちと交わした最後の説話は、ある程度、書きとどめられて残されました。
長老の死後しばらくして「アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ」が記念に書きとどめたのです。
しかし、それが完全にその時の説話そのままであるか、あるいは彼がそれまでの師との対話からもこの記録に付け加えたのか、わたしには何とも決められません。
おまけに、この記録では、まるで長老が友人たちに向って自分の一生を物語の形で述べたかのように、説話が少しの切れ目もなくつづいているのですが、これにつづくいくつかの話から判断すると、疑いもなく、実際にはいささか事情が異なっていたようです。
なぜなら、たとえ客人たちが主人の話をほとんどさえぎらなかったとはいえ、この晩の話はみなで交わしたものであり、だれもが会話に口をはさんで、自分も発言し、おそらく自分たちも何かの話を語ったり、披露したりしたにちがいなのだし、そのうえ、この物語がこれほど淀みなく語られることなどありえないからです。
なにしろ、長老はときおり息を切らせ、声をかすれさせていましたし、時には寝入りこそせぬものの、一休みしにベッドに横になることさえありましたが、客人たちが席を離れずにいたのです。
一度か二度、説話は福音書の朗読で中断されました。
読み手は「パイーシイ神父」でした。
もう一つ注目すべき点は、彼らのうちだれ一人として、ほかならぬこの夜、長老が息を引き取ろうとは思っていなかったことです。
まして、生涯の最後の晩、長老は昼間の深い眠りからさめたあと、ふいに友人たちとのこの長い説話の間ずっと生命を維持してくれた新しい力を獲得したかのようであっただけに、なおさらのことでした。
それは測り知れぬほどの生気を支えてくれた最後の感動とも言うべきものでありましたが、しかし、ごく短い間だけのことでした。
なぜなら、長老の生命は突然、ふっと断ち切られたからです・・・・だが、その話はあとにまわしましょう。
今は、説話の細部まですべて述べることをせず、むしろ「アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ」の原稿にもとづく長老の物語だけに限ることを、断わっておきます。
くりかえして言いますが、もちろん大部分は「アリョーシャ」がこれまでのいろいろな説話からも選んで、一つにまとめたものであるとはいえ、このほうが簡潔ですし、それにさほど退屈でもないでしょう。
以上が、語り手を通して作者が書いたことです。
ここからしばらくの間、この小説は「ゾシマ長老」の物語になるのですが、読者は何か本筋から離れたことになっていくようなもどかしさを感じるのではないでしょうか。
「ゾシマ長老」の生涯がどのようなものであれ、今後の大胆な展開を予感させる「カラマーゾフ」家の動向が気にかかるため、この部分はさっと読み飛ばして次のドラマに移りたいと思うのではないでしょうか。
しかしここは何も考えずに、作者の後に続いて行ったほうがいいでしょう。

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