2017年11月6日月曜日

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家では召使が四人いたが、どれも農奴で、みな知合いの地主の名義で買いとったものだった。

今でもまだおぼえているが、のちに母はこの四人のうち、アフィーミヤという、年とった跛の料理女を紙幣六十ルーブルで売りとばし、その後釜に自由農民の女をやとったのである。

六十ルーブルとは「アフィーミヤ」の価値が約6万円ということです。

何とも言えませんね。

最初の召使の四人は農奴で「みな知合いの地主の名義」で買い取ったということですが、地主でなければ農奴を買うことができない制度だったのでしょうか。

母はなぜ、農奴の一人を売り、自由農民の女をやとったのでしょうか、そのへんの理由は書かれていません。

ところで、大斎期の六週間目になると、兄の身体具合が急に悪化した。

大斎期につきましては(289)に書きました。

日ごろから病弱で、腺病質で、胸でもわるくしそうなきゃしゃな身体だった。

小柄ではないのだが、痩せて、ひよわで、顔だちもいたって上品だった。

風邪をひいたのだろうと高をくくっていたところ、医者は往診するなりすぐ、これは奔馬性結核で、この春は越せまい、と母に耳打ちした。

奔馬性結核とは、「結核は一般に慢性の経過をとる疾患であるが,一部には急速に進行し広範な乾酪性,空洞性病変に至る症例があり,奔馬性結核と呼ばれた。最近では急速進展例と呼ばれる。」とのことです。

母は泣きだし、用心深く兄に(これはむしろ、兄をおどろかせぬためだった)、精進を行なって聖餐を受けるよう、頼みはじめました。

それというのも、このころ兄はまだ床についていなかったからだ。

これをきくと、兄はすっかり腹を立て、教会を罵ったが、それでも考えこんでしまった。

自分が危険な容態であり、だからこそ気力のあるうちに、母が精進を行わせたり、聖餐を受けに教会へやろうとしたりしているのだと、いっぺんに悟ったのである。

もっとも、だいぶ以前から健康がすぐれぬことは自分でももう承知していたし、この一年ほど前にあるとき食卓で、わたしと母に向って冷静に「僕はこの世に暮せる人間じゃないんだ。ことによると、あと一年と生きられないかもしれない」と言ったことがあった。

まさにその予言が的中したようなものだった。

二、三日すると、神聖週間になった。

神聖週間という言葉はネットで探せませんでしたが、聖週間というものがあり、これが神聖週間のことだと思います。

つまり、聖週間(受難週)とは「復活前1週間におけるイエス=キリストの受難を記念して祈る期間。受難週。受難節。」とのことです。

この辺のことに少し詳しく説明してある具体的な教会のウェブサイトがありましたので参考としてそのまま引用します。

「復活祭(イースター)は、イエス・キリストの復活を記念して祝われる教会暦の最も古い祭日です。中世以降は、春分の次の満月の直後の日曜日を復活日として定め、今日に至っています。 
 従って、本年(2005年)の復活祭は、3月27日の日曜日(主日)になります。」「受難節(レント)は四旬節ともいわれ、復活祭前の6回の日曜日(主日)を除いた40日間をいいます。受難節の始まる水曜日を灰の水曜日といいます。本年は、2月9日が灰の水曜日になります。40日間の設定は、イエス・キリストが体験された荒野の試練の40日間の断食に由来しています。 受難節の期間は、イエス・キリストが私たちの罪のために身代わりとして、十字架にかかられた御受難を覚え、身を慎んで節制につとめ、祈りつつこの世の生活を送ります。 復活祭の前の日曜日(主日)を棕梠(しゅろ)の主日といいます。本年は、3月20日が 棕梠の主日になります。棕梠の主日から復活祭の前日までの1週間を受難週(3月20~26日)といいます。この週にはイエス・キリストを覚え、祈りに集中します。受難週の木曜日を洗足木曜日(3月24日)といいます。この日にはイエス・キリストの最後の晩餐にならい、信濃町教会では「洗足木曜日聖餐式」をいたします。翌日の金曜日は、受難日(3月25日)といい、イエス・キリストが十字架にかかられた日として覚えます。受難日にはイエス・キリストを覚えて、信濃町教会では「受難日祈祷会」をいたします。  イエス・キリストは、十字架上に死に、葬られ、3日目の日曜日の朝早く、よみがえりました。春の訪れとともに、復活祭は喜びと賛美に満ちた教会のもっとも大切な祭日です。」とのことです。

ところが、兄が火曜日の朝から精進をはじめたのだ。

「実を言うとね、お母さん、これはお母さんを喜ばせて安心させるためにやってるんですよ」と兄は言った。

母は喜びと、そして「突然こんな変化が生じたからには、たぶん、最期が近いのだろう」という悲しさに、泣きだした。

だが、兄が教会に通ったのもしばらくの間で、どっと寝付いたため、懺悔も聖餐ももはや家で受けることになった。

明るい、澄みきった、かぐわしい日々が訪れた。

この年の復活祭は遅かった。

忘れもしないが、夜どおし兄は咳きこみつづけ、ろくに眠れないのに、翌朝はいつも服装をととのえて、柔らかい肘掛椅子に腰かけようと試みるのだった。


もの静かなおとなしい様子で坐り、微笑をうかべ、病気の身だというのに、快活な楽しげ顔をしていた兄の姿が記憶に焼きついている。


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