ある種の考えを前にして、特に他人の罪を見た場合など、人はためらいをおぼえ、『力ずくで捕えるべきか、それとも謙虚な愛に頼るべきか?』と心にたずねることがある。
そんなときは常に『謙虚な愛で捕えよう』と決めるがよい。
いったん永久にこう決心すれば、全世界を征服することができよう。
愛の謙虚さは恐ろしい力である。
すべての強い力の中でも、これにならぶものは何一つないほど、強い力なのだ。
なんだかわかりませんが、すばらしいことをしかも実践的で簡単な言葉で言っているように思います。
毎日、毎時、毎分、おのれを省みて、自分の姿が美しくあるよう注意するがよい。
たとえば、幼い子供のわきを通るとき、腹立ちまぎれにこわい顔をして、汚ない言葉を吐きすてながら通りすぎたとしよう。
お前は子供に気づかなかったかもしれぬが、子供はお前を見たし、お前の罰当りな醜い姿が無防備な幼い心に焼きついたかもしれない。
お前は知らなかったかもしれぬが、もはやそのことによって子供の心にわるい種子を投じたのであり、おそらくその種子は育ってゆくことだろう。
これもみな、お前が子供の前で慎みを忘れたからであり、もとはと言えば注意深い実践的な愛を心にはぐくんでおかなかったためである。
この部分も奥深い言葉だと思います。
以前にこの「ゾシマ長老」の話を読んだときは、おそらく本題から離れていると思って、注意深く読まなかったのですが、ここは大変味わい深い話だと今になって気づきました。
兄弟たちよ、愛は教師である。
だが、それを獲得するすべを知らなければいけない。
なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。
必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。
偶発的に愛するのならば、だれにでもできる。
悪人でも愛するだろう。
青年だったわたしの兄は小鳥だちに赦しを乞うたものだ。
これは無意味なようでありながら、実は正しい。
なぜなら、すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一箇所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである。
小鳥に赦しを乞うのが無意味であるにせよ、もし人がたとえほんのわずかでも現在の自分より美しくなれば、小鳥たちも、子供も、周囲のあらゆる生き物も、心が軽やかにかるにちがいない。
もう一度言っておくが、すべては大洋にひとしい。
それを知ってこそ、小鳥たちに祈るようになるだろうし、歓喜に包まれたかのごとく、完璧な愛に苦悩しながら、小鳥たちが罪を赦してくれるよう、祈ることができるだろう。
たとえ世間の人にはどんなに無意味に見えようと、この歓喜を大切にするがよい。
ここで切ります。
自分なりにざっとまとめてみます。
「愛の力は何よりも強いものであるが、それを手に入れるためにはその場の愛だけではなくすべてに渡る永続的な愛が必要である。なぜなら万物は『たえず流れながら触れ合っているのであり、一箇所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである』」
しかし、こうして言葉でまとめると心にあまり響いてこない気もします。

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