2018年1月16日火曜日

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最初は偶然ある《ぼろい仕事》で「グルーシェニカ」と交渉を持った「フョードル・カラマーゾフ」が、とどのつまりは自分でもまったく思いがけないことながら、分別すら失った感じで彼女にぞっこん惚れこんだとき、そのころすでに死期の迫っていた「サムソーノフ老人」は、大笑いしたものでした。

注目すべきことに、「グルーシェニカ」はこの老人との付合いの期間を通じて終始、誠実とさえ言えるくらいまったく隠しだてをせず、おそらくこんなことは世界じゅうで彼一人に対してだけだったはずです。

ごく最近になって、突然「ドミートリイ」まで恋に燃えて登場してくるに及んで、老人は笑うのをやめました。

それどころかむしろ、一度、真顔できびしく「グルーシェニカ」に忠告したほどでした。

「もし親父と息子のどちらかを選らぶとなったら、爺さんを選ぶんだぞ、ただし、あの人でなしの爺が必ずお前と結婚するという条件で、あらかじめある程度の財産を分けさせることだ。あの大尉とはくっつくなよ、お先真っ暗だぞ」

これは、商人としての彼なりの判断ですが、たしかに彼女が「ドミートリイ」のような性格の男性と一緒になるとよくないことが起こりそうですね。

(563)の「スメルジャコフ」と「イワン」の会話の中に次のような話がありました。

「・・・・いきなり奥さまに納まろうという気を起すかもしれませんよ。現にわたし自身も知っていることですが、例のサムソーノフという商人があの方に、そうなればいたってわるくない話だと正直におっしゃって、笑っていたそうですからね。」

これが、当時すでに間近な自分の死を予感し、事実この忠告は五ヶ月後に他界した好色な老人が、みずから「グルーシェニカ」に与えた言葉でした。

ついでに指摘しておくと、そのころすでにこの町では多くの人が、「グルーシェニカ」をめぐるカラマーゾフ親子の愚かで醜い争いのことは知ってはいたものの、親子の双方に対する彼女の態度の真の意味を理解していた者は、当時まだ少なかったのです。

「グルーシェニカ」の二人の女中でさえ(いずれ述べる悲劇がすでに突発したあとで)、法廷で後日、「グルーシェニカ」が「ドミートリイ」に会っていたのは、《殺すと脅迫された》とかで、もっぱら恐怖からにすぎない、と証言したほどなのです。

この段階で今後のストーリイを、「いずれ述べる悲劇」があることと、そして「法廷」の場面があること、「ドミートリイ」が女中を脅したことを潔くバラしていますので、読者はこの後の大体の大筋がわかってしまします。

女中は二人いて、一人は「グルーシェニカ」の両親の代から奉公している、非常に年をとった、病身でほとんど耳のきこえぬ料理人であり、もう一人はその孫にあたる、二十歳くらいの若いぴちぴちした娘で、「グルーシェニカ」の小間使をしていました。

「グルーシェニカ」の生活はきわめてつつましく、家具調度もいたって貧しいものでした。

彼女の借りている離れは全部で三部屋しかなく、二十年代に流行した古めかしいマホガニーの家具がついていました。

「ラキーチン」と「アリョーシャ」が彼女の家に入ったときは、もうすっかり夕暮れでしたが、どの部屋にもまだ灯りがともっていませんでした。

当の「グルーシェニカ」は客間で、とうの昔にすりきれて穴だらけになった革張りの、マホガニーまがいの背のついた、固い不格好な大きなソファに横たわっていました。

「マホガニー」は高価なので、代替材としてセンダン科カヤ属の樹木は性質は異なるものの外見がマホガニーと酷似しているため頻繁に代替材として使われるとのこと。

頭の下に、ベッドから持ってきた白い羽毛の枕が二つ、あててありました。

両手を頭の下に組み、身じろぎもせずに身体をまっすぐ伸ばして、仰向けに横たわっていました。

人を待っているかのように、黒い絹のドレスを着て、髪には薄いレースの飾り布をつけ、それが実によく似合っていました。

肩にもレースのショールをかけ、大きな金のブローチで留めていました。

まさしく彼女はだれかを待っていたのであり、顔もいくぶん青ざめ、熱っぽい唇と目をして、右足の爪先でソファの腕木をもどかしげにたたきながら、やるせない、苛立たしいような気持で横になっていたのでした。

「ラキーチン」と「アリョーシャ」が現れたとたん、ちょっとした騒ぎが起りました。

まだ玄関にいるうちに、「グルーシェニカ」がすばやくソファから跳ね起き、ふいに怯えた声で「どなた?」と叫ぶのがきこえました。


しかし、客を出迎えたのは小間使で、すぐ女主人に叫びました。


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