2018年1月15日月曜日

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一つだけ、みなの確信していることがありました。

ほかでもない、「グルーシェニカ」を陥落させるのはむずかしく、この四年間を通じて彼女の色よい返事を自慢できそうなのは、パトロンの老人を除いて、ほかに一人もいないことです。

これは確かな事実でした。

なぜなら、彼女の色よい返事を得ようと、特にこの二年間、少なからぬ求愛者が立ち現れたからです。

しかし、いっさいの試みがむだとわかり、求愛者の中には、この意志の強い若い女性からにべもない嘲笑的な肘鉄をくらって、喜劇的な恥さらしな結末すらさらして退却を余儀なくされた者もありました。

さらにまた、この若い女性が特にここ一年ばかり、俗に《ぼろい仕事》とよばれるものに首を突っこみ、この面でもずばぬけた手腕の持主であるとわかったため、しまいには多くの人が彼女を根っからのユダヤ女と綽名するようになったことも、みなが知っていました。

《ぼろい仕事》とは金貸しのことですね。

高利で金を貸すというわけではありませんでしたが、たとえば「フョードル・カラマーゾフ」と組んで一時は実際に、一ルーブルの手形を十カペイカといったただ同然の値段で買占めをやり、それらの手形の中には後日十カペイカにつき、一ルーブルの割で儲かったものさえあったことは、周知の事実でした。

彼女が「フョードル・カラマーゾフ」と組んで仕事をしていたというのは驚きましたが、それで知り合ったのですね。

「一ルーブルの手形を十カペイカ」でというのは、1,000円の手形を100円で買取り元値で売った訳ですから、10倍の儲けがあったわけですね。

ここ一年ほど両足がむくんで歩行の自由を奪われている病人の「サムソーノフ」は、男やもめの大金持で、すでに成人している息子たちには暴君であり、吝嗇な頑固が男でしたが、自分の囲い者にはすっかり牛耳られていました。

最初は彼女をきびしく監督し、しめつけて、当時口さがない連中が言ったように《味気ない》暮しをさせようとしたのですが、「グルーシェニカ」は操の固さに関して絶大の信用をいだかせ、首尾よく自分を解放することに成功しました。

事業にかけてはたいへんなやり手だったこの老人も(今ではとうに故人になっているが)、また際立った性格で、何よりもまずけちで石のように手堅かったため、「グルーシェニカ」にぞっこん参って、彼女なしには生きてゆかれぬほどだったくせに(早い話が、ここ二年ばかりは、まさにそういた有様だった)、まとまった巨額の金はやはり分けてやろうとせず、たとえ彼女がきれいさっぱり別れようと脅してみたとしても、意地を張りとおしたにちがいありませんでした。

この括弧書きの(今ではとうに故人になっているが)の時制はいつなんでしょう、物語の進行上では存命中だと思うのですが、ここでいう(今)は物語の進行上の時制から十数年後のことなんでしょうか。

だが、代りに少しばかりの資金を分け与え、そのことが知れ渡ったときには、それだけでもみながびっくりしたものでした。

「お前は女じゃあるが、しっかり者だから」

八千ルーブルほどを分けてやりながら、彼は言いました。

800万円を与えたわけですが、この老人にとっていろいろ考えた末に彼女の価値がそれだけだったのでしょう、いくら自分の好みではあっても、その自分を超えたところからの決断であり、やはり家族にはかえられないという現実的なというより客観的見地を考慮した上での現実的な判断ということでしょう。

「自分で活用してみるがいい。しかし、今までどおりの年々の手当て以外は、わしが死ぬまでにこれ以上何一つもらえんのだし、遺言でもお前には何も分けてやらんから、それだけは承知しておくがいい」

こういうことを事前に言うだけでも立派なことというか愛があったからだと思います。

老人はこの言葉を守りました。

死んだとき、彼は全財産を、一生そばに置いて召使なみに扱っていた息子たちと、その妻子に譲り、「グルーシェニカ」のことは遺言状に名前も出しませんでした。

これらすべては後日わかったことです。


しかし、《自分の資金》をどう活用すればよいかという助言で、老人は「グルーシェニカ」に少なからず力を貸してやり、彼女に《商売》を教えてやりました。


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