「パイーシイ神父」の朗読をきこうとしかけましたが、ひどく疲れていたため、とろとろまどろみはじめました・・・・
「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって(十八字が太字)」
「パイーシイ神父」が読んでいました。
「イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた(ここまでの会話は太字)」(訳注 ヨハネによる福音書第二章)
『婚礼? 何のことだろう・・・・婚礼だなんて・・・・』
「アリョーシャ」の頭の中を、こんな考えがつむじ風のように走りすぎました。
『あの人にも幸せが訪れて・・・・祝宴に出かけて行った・・・・いや、あの人はナイフを持って行ったりしなかった、ナイフなんか持って行くもんか・・・・あれは《いじらしい》言葉にすぎない・・・・そう・・・・いじらしい言葉は必ず赦してやらなければいけないんだ。いじらしい言葉は心を慰めてくれる・・・・それがなかったら人間の悲しみはあまりにも辛すぎるだろうからな。ラキーチンは裏街へ行ってしまった。自分の受けた侮辱のことを考えている間、ラキーチンは常に裏街へ沈むことだろう・・・・しかし、本当の道は・・・・本当の道は広く、まっすぐで、明るく、水晶のようにきらめき、その果てに太陽があるのだ・・・・おや? 何を読んでいるんだろう?』
「ラキーチンは裏街へ行ってしまった」というのはどういうことでしょう、「くるりと別の通りに曲りました」と書かれていましたが、それが裏街の方なのでしょうか。
「ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った。『ぶどう酒がなくなってしまいました』(ここまでの会話は太字)・・・・」という言葉が「アリョーシャ」にきこえました。
『あ、そうか、ここを聞きおとしたんだ、聞きおとしたくなかったのに。この箇所は好きだな。これはガリラヤのカナだ、最初の奇蹟だ・・・・ああ、この奇蹟、ああ、愛すべきこの奇蹟! キリストが訪れたのは、悲しみの場所ではなく、人間の喜びであり、はじめて奇蹟を行なって人間の喜びに力を貸したのだ・・・・「人を愛する者は、人の喜びをも愛する」これは亡くなった長老がたえずくりかえしていた言葉だ、あの人のいちばん主要な考えの一つだった・・・・喜びがなければ生きていかれないと、ミーチャも言っている・・・・そう、ミーチャが・・・・真実で美しいものはすべて、常に寛大さに充ちている–これもやはり長老のおっしゃった言葉だ・・・・』
「アリョーシャ」の「ここを聞きおとしたんだ、聞きおとしたくなかったのに」というのは、つまり「ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った。『ぶどう酒がなくなってしまいました』(ここまでの会話は太字)・・・・」の部分は聞いてなくて、心の中で思い浮かべたということでしょうか、しかし「という言葉が「アリョーシャ」にきこえました。」と書かれていますので聞きおとしてはいないと思うのですが。
そして、長老の言った言葉と「ドミートリイ」の言葉が一致するのですね。
長老の「いちばん主要な考えの一つ」と「ドミートリイ」の言ったことが同じというのは、たいへんなことです、一見粗雑で乱暴ではありますが彼は何か特別のものを持っているのだと思います。
「ヨハネによる福音書」の第2章の全文は次のとおりです。
「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。そののち、イエスは、その母、兄弟たち、弟子たちと一緒に、カペナウムに下って、幾日かそこにとどまられた。さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」

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