ふたたび柩と、開け放った窓と、静かな荘重な明晰な福音書の朗読とがありました。
しかし、「アリョーシャ」は、読まれていることをもはや聞こうとしませんでした。
この一文の挿入は、彼が意図的に聖書の朗読を拒絶したということなんでしょうか、つまり彼の内部で聖書などはもういいという強い意志が働いたということを表しているのでしょうか。
ふしぎなことに、ひざまずいたまま寝入ったのに、今や彼はしゃんと立っており、突然、席を蹴るように、しっかりした早足の三歩で柩のすぐわきに歩みよりました。
「パイーシイ神父」に肩をぶつけたが、それにも気づかぬほどでした。
神父は一瞬、福音書から彼に目をあげようとしかけましたが、青年に何やら異様なことが生じたのをさとって、すぐにまた目をそらしました。
これは、意味深長な文章ですね、「パイーシイ神父」は「アリョーシャ」が何らかの宗教的な精神状態にあると、そしてそれは悟りという神の啓示かもしれないし、別の何かかもしれないと感じ、そういう時は声をかけないで様子を見守るのですね。
「アリョーシャ」は三十秒ほど柩を見つめていました。
マントに包まれ、胸に聖像をのせ、ギリシャ十字架のついた頭巾を頭にかぶって、身じろぎもせずに柩の中に長々と横たわる遺骸を見つめていました。
たった今、彼はその人の声をきいたばかりであり、その声はまだ耳にひびいていました。
彼はさらに耳をすましました。
物音を待ちました・・・・しかし、突然、急に向きを変えるなり、庵室を出ました。
彼は表階段にも立ちどまらず、急いで下におりました。
歓喜に充ちた魂は自由を、場所を、広さを求めていました。
頭上には、静かな星をこぼれるばかりにちりばめた空の円天井が、見はるかすかなたまで広々と打ちひらけていました。
天の頂から地平線にかけて、まだおぼろな銀河がふた筋に分れて走っていました。
動き一つないほど静かな、すがすがしい夜が大地を包み、教会の白い塔と金色の円屋根がサファイヤ色の空にきらめいていました。
絢爛(けんらん)たる秋の花は建物のまわりの花壇で朝まで眠りに沈みました。
地上の静けさが空の静けさと融け合い、地上の神秘が星の神秘と触れ合っているかのようでした・・・・
「アリョーシャ」はたたずんで眺めていましたが、ふいに足を払われたかのように地べたに倒れ伏しました。
何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できませんでしたが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけました。
ここは印象的な場面ですね、(628)で「アリョーシャ」が「ゾシマ長老」の言葉として後でまとめた文章の中に「もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。」とありました。
『汝の喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ・・・・』
心の中でこんな言葉がひびきました。
何を思って、彼は泣いたのだろう?
そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、《その狂態を恥なかった》のです。
さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのでした。
この表現はすごいです、彼の魂の一点に数知れぬ神から投じられた無数の糸が集合したのですから、これは悟りということですね。
「室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いた」といわれる「空海」を思い出しました。
彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたいと思いました。
ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのです。
『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』
この「自分のためにではなく」という考え方はキリスト教では当たり前なのでしょうか、仏教では少し違うように思います。
ふたたび魂に声がひびきました。
しかし、刻一刻と彼は、この空の円天井のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じました。
何か一つの思想とも言うべきものが、頭の中を支配しつつありました。
そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものでした。
大地にひれ伏した彼はかよわい青年でありましたが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていました。
そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのです。
「アリョーシャ」はその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができませんでした。
「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」
後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのでした・・・・
三日後、彼は修道院を出ましたが、それは「俗世にしばらく暮すがよい」と命じた亡き長老の言葉にもかなうものでした。
ここのところは、この小説の中でもっとも肝心なところではないかと思います。
彼の心に何が訪れたのか、そして「何か一つの思想とも言うべきもの」は何なのか、ここでははっきりと描かれていませんが、事実として彼の心の中に大きな変化が訪れ、それはイエスを神とする宗教的な経験に基づくものではありながら、宗教的な理解を超えて普遍的な精神のある極限を表しているように思います。

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